20200603 あfろ先生と安倍吉俊

この前ゆるキャンのアニメを全話見た話をした。その流れで原作者であるあfろ先生の漫画を一式読んでみたのだけど、その作風にかなり惹かれるところがあった。それは、自分が安倍吉俊に感じている魅力と近いものだと思う。以下にあfろ先生の漫画の感想や、安倍吉俊を連想した理由について書いてみる。

あfろ先生の作品を俯瞰してみた時、実は『ゆるキャン△』は転換期にあたる作品になる。ゆるキャン以前に書かれた『月曜日の空飛ぶオレンジ』と『シロクマと不明局』は、うってかわってどちらも著者のイマジネーションを炸裂させたかのような架空のSF世界を舞台にしたものになっている。どちらも登場人物達がシュールなギャグを永遠に続けるという読者を選ぶ内容で、処女作である『月曜日の空飛ぶオレンジ』は打ち切りだったのか唐突な最終回を迎えている。あえて偏見を持って言うなら、『ゆるキャン△』は自らの持ち味と信じていたものを封印して、読者へ配慮した大人になって書かれた作品だ。

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『月曜日の空飛ぶオレンジ』1巻より。こんな感じのシュールなギャグが永遠に続く。

しかし、この2作はひたすら荒唐無稽な展開が続くながらもメインプロットと呼べるものが一応存在していて、どちらも奇妙な事態が巻き起こる世界の仕組みに迫るという、自身の作風と綺麗に対応させた読み応えのあるものになっている。そこからは、好き勝手やっているようで、どこか自身を引いた目で見ているかのようなバランス感覚が感じられる。

特に2作目である『シロクマと不明局』は完成度が高い。冒頭2ページ目で突如死んでしまう主人公が煉獄でスローライフを送るというもので、仕事を探したり、新しい人々との出会いなどを通して成長するモラトリアムものになっている。死後の世界での生活という設定はシュールなギャグをやり続ける理由付けとして納得感がある。しかし本当に驚かされるのは、物語の終わりにおいて、主人公は自身の死の理由について知りもう一度新しい人生を望むという、モラトリアムものとして真っ当な展開をしつつ、自身の作風のために間借りしていたように見えた煉獄という設定にもケリをつけてみせることだ。

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『シロクマと不明局』1巻より。食堂の間取りといい完全にかもめ食堂のパロディ。意外とガッツリ先行研究とかしてるんだろうか。

ここで安倍吉俊の話に戻る。あfろ先生との比較として出してしまったけど、そもそも安倍吉俊は漫画家出身ではない。HPに挙げていたイラストがアニメ業界の目に留まり『serial experiments lain』に参加したのが初めての仕事であり、つまりイラストレーターから始まっている。『serial experiments lain』の後、プロデューサーの上田耕行からの無茶ぶりによって『灰羽連盟』の脚本を担当させられたのが安倍吉俊の初めての本格的なストーリー制作の仕事だ。

『灰羽連盟』は安倍吉俊の同人誌が原案であり、『NieA_7』や『回螺』にも通ずる、現実とは異なる架空の世界を舞台した物語になる。安倍吉俊は”人間の頭の中にもう一つの世界がある”というモチーフに関心があることを著作のあとがきなどで明かしている(ソースは忘れたけど関心のある作品として『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『旅のラゴス』に言及したこともあったと思う)。

『灰羽連盟』は灰羽と呼ばれる背中に羽を生やした人間がいる世界の物語で、灰羽は巨大な繭から成長した子供の姿で生まれ、街で過ごした後、時が来ると街を囲う壁の外の世界へと巣立っていく。『NieA_7』と同じく、デビューまでの期間が長かった安倍吉俊のモラトリアム的な志向が反映されたような設定だ。安倍吉俊は初めての経験ながら、アニメ全13話の脚本を見事に書き切っている。イラストレーター出身でありながら、説得力のある架空の世界を描くということのみに終始するのでなく、灰羽の設定そのものに行って帰る物語の構図を仕込んでいるなど資質を感じさせる。更には灰羽である主人公が外の世界へ行くまでの物語になるかと思いきや、罪の意識に囚われ街から出られなくなっている先輩の灰羽を送り出すことが最終回におけるプロットになるなど、煉獄めいた世界観設定に対する更なる深堀りを行うツイストまである。

あfろ先生と安倍吉俊の一つ目の共通点は、作家活動の初期において、自分の頭の中にある架空の世界を出力することに関心を持ち、またモラトリアムものという利己的な作品に成りかねない危うい要素を選択しつつも、持ち前の物語設計能力によって納得度の高い物語を作り上げていることだ。

あfろ先生は『シロクマと不明局』の完結後、4コマではない漫画作品として『ゆるキャン△』を書き大ヒット作となる。これに平行して立ち上げられた新作が『mono』だ。

『mono』はゆるキャンとは異なり再び4コマ漫画に戻っている。舞台はSF世界ではなく、写真部に所属する女子高生たちの日常を描くという内容だ。作中では主人公の持つ全天球カメラで撮影された魚眼レンズ風の風景が度々挿入される。しかしこれは『mono』から始まったものではなく、処女作から続く演出だ。著者の写真趣味が染み出してしまったものと捉えても良いかもしれないが、もしこういったレンズを通して見た風景から得られる情緒を作品に取り込もうとしているとしたら、それはどういったものだろうか。

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『mono』1巻より。

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『月曜日の空飛ぶオレンジ』1巻より。

『mono』が異質なのは、現実世界を舞台とし女子高生を主役に据えているのにも関わらず、初期作以上に荒涼な印象を受けることだ。そもそもこの作品は、大好きだった先輩に憧れて写真部に入った主人公が、先輩の卒業により抜け殻になってしまったところから始まる。主人公の死から始まった『シロクマと不明局』と同様に、全て終わってしまった世界をどうやって面白おかしく生きていくかという話だ。そのための手段として写真部の面々は「RICOH THETA」や「HX-A1H」や「GoPro」で世界を撮って遊んでいる。

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『mono』1巻より。

あfろ先生はぶれることなく、劇的なことは起こらない曖昧な日常を生きる感覚をそのまま自身の漫画にも反映してきたのだと思う。そのやり方でも才能があったから商業誌で連載を続けることができた。しかし、自身の親しみのある4コマという枠から離れ、万人受けするような明確なドラマを演出することに挑戦したのが『ゆるキャン△』なのだと思う。そういった目線で見た時、『mono』は見事に表裏の関係にある作品だ。

ちなみに『mono』のストーリーは、写真部に所属する主人公らがとある4コマ漫画作家と出会い、漫画のモデルとして山梨周辺で部活動を行うというものだ。その中では、出版社の依頼によりとあるキャンプ漫画のロケ地探訪をする回もあるなど、著者の生活に作品がギリギリまで接近している。

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『mono』1巻より。理想と現実。

安倍吉俊は『serial experiments lain』以降幾つかのアニメ制作に関わった後、イラストレーターとしての仕事が主となっていくが、2009年より漫画作品『リューシカ・リューシカ』をガンガンONLINEで連載する。少女リューシカの日常を描く漫画で、まだ固定概念を持たない少女の感性から見た世界をビジュアル化していることが特徴だ。安倍吉俊は2011年には入籍しており、子供を主人公としたのは年齢や生活面の変化が影響しているのかもしれない。ここで面白いのは、舞台こそ現実世界となったものの、『リューシカ・リューシカ』は安倍吉俊が過去作から扱ってきたテーマの延長線上に綺麗に乗っていることだ。これについては『リューシカ・リューシカ』の直前に完結した『回螺』と比較するのが分かりやすい。

『回螺』は安倍吉俊が商業デビュー前に描いた同人誌から始まる連作で、10年分の作品が1冊の本にまとめられワニマガジン社から出版された。オムニバス形式であり各話は独立しているが、共通するのは人間の記憶と意識、そして世界との関係性についての物語であることだ。

例として、デスゲームの構造が用いられた『白雨』のあらすじを挙げる。2人の登場人物は目が覚めると迷宮に閉じ込められている。出口を求めてさまようが、いつの間にか殺し合いになり、生き残った方は本能的に相手を捕食してしまう。実はこの物語は分割された人間の意識を統合する実験の様子を表したもので、登場人物はその意識そのものだ。捕食により相手の記憶を取り込んだ主人公は世界に対する認識が変調し、迷宮の出口が見えるようになる。しかし、その先でも全ての意識が統合されるまで同じ出来事が無限に繰り返されることが示唆され物語は終わる。

『回螺』はいわゆるクオリアのような人間の認識メカニズムへの興味から生まれた作品で、『白雨』は人間の世界の認識の仕方は記憶によって変調するのではないか、という著者の考察を物語にしたものなのだと思う。『リューシカ・リューシカ』は一見子育てもののように見えるが、恐らく「子供の頃に見えていた世界は大人になった今と少し違っていたはずだ。あれはなんだったんだろう。」という疑問からスタートしていると思われる。安倍吉俊のこういった人間の認識への偏執的な興味は、イラストレーターという職ゆえに通る、絵が成立するまでの情報量についての考察といった範囲を超え、著作に繰り返し登場している。

あfろ先生と安倍吉俊は、あくの強い作風ながらも、実はいつも素朴な感性で作品を作っているのだと思う。そのため外圧のない状況で立ち上げた作品には、その時の生活や興味のある事柄がそのまま反映されてしまう。しかし、表面的にはジャンルすら変わったかのような変化があっても、その核には一貫した作家独自の視点がある。むしろ、その視点を巧みに流用して次はどんな作品を生み出すのかという手つきそのものが一つの楽しみにすらなっている。

長々と書いたけれども、要は二人とも才能があるのに、経歴を俯瞰して見るとどこかマイペースさが滲み出ているところに魅力を感じているのだと思う(作家の視点に個性があるからこそ、それで成立するんだという前提付きだけど)。こういったタイプの作家は追いかけ甲斐がある。何年かに一度くらいの頻度でいいので、思い立った時に活動内容をチェックすると、その時に作家がどんなことを考えていたが作品を通して分かり、他人の人生を覗き込むような楽しみ方ができる。自分はRSSリーダーでブログを読み漁るというのを習慣にしているのだけど、そのより高純度なバージョンのような感じがある。

余談だけど、安倍吉俊は最近、愛機「SIGMA fp」の動画撮影機能の実験としてYoutubeに積極的に動画を上げている(これです)。その中で、ツイッター社から公式マークを付与しようかという提案を貰ったのに恐縮すぎて断ってしまったというエピソードを紹介していて、つい笑ってしまった 。動画での語りの印象もそうだけど自己顕示欲を感じないんだよね。よく生徒に懐かれる教授のような雰囲気がある。そしてあfろ先生に至ってはそもそもSNSアカウント等の発信場所が一切ないというご隠居ぶり。この記事を書くにあたってwikipediaやインタビューなどを漁ってみたけど、年齢や性別などの情報も見つからなかった。でもこれは秘密主義を貫いているというより、「聞かれなかったから答えなかった」が続いた結果としてたまたまそうなったのではという気もしてくる。

安倍吉俊は同人誌の『飛びこめ!!沼』シリーズが読んでみたいんだけど、最近はコミケから足が遠のきがちで未だに手に入っていない。『惑星ラーン』も初めの1巻を見ただけで止まってる。あfろ先生は『mono』の2巻がそろそろ出て良い時期だと思うので、まずはこちらが楽しみかな。

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『mono』1巻より。