20240317
花粉に怯えながら、国立西洋美術館の「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を見に行く。
とにかく弓指寛治の展示が素晴らしく、帰宅後もこの作品のことばかり反芻してしまう。
どのようにして路上生活者になるか、想像するだけなら誰でもできるものの、本当のところは一人一人に聞いてみるしか無い。なので、それをやってみるという大抵の人は避けてしまう仕事を良くやってくれたと思う。
狭い展示空間もドヤにインタビューのために入っていく感覚の再現になっているのだと思う。(同時に車椅子ユーザーには厳しそうとも感じた)
20240320
FF7リバースをクリアするも苦い顔。いわゆる”新劇場版”アレンジが悪い方向にばかり働いていて、特にエアリスの死と追悼の場面が曖昧になったのは本当に良くないと思った。
20240321
草月ホールへ蓮沼執太のパフォーマンスを見に行く。unpeopleのパフォーマンスの総決算的な素晴らしい部分と、あら?と感じる部分と両方があった。
舞台はイサムノグチの庭園。人工的に作られた小さな丘のような場所になっており観客は上層から下層までの好きな場所で寛げるようになっている。その至る所にスピーカーが隠されていて、単純なマルチチャンネルとは違う複雑な音場を形成している。
蓮沼執太は様々なポイントで演奏を行うが、その音は演奏者の近くにあるスピーカーから鳴るような単純な配線にはなっておらず、想像もしない位置から音が飛んでくる。このため、演者を追いかけるのではなく、複雑な音場の中から自分だけのスイートスポットを求めて自由に歩き回る楽しみがあった。(自分の居場所を決めたらそのまま座って過ごす人も多かった。むしろ音の定位のほうが変化していくので、鑑賞に徹するなら動かないほうが差分が分かり易いのだと終わってから気づいた)
気になったのは、丘の頂上に一般的な2chスピーカー&ウーファーが設置されていて、常にここから一定の音量を出すことでシャワーを振りまくように全体に音を満たす構造になっていたこと。つまり(私がとても苦手な)トップダウン型になっている。
ややこしいのは蓮沼執太は積極的に低い位置で演奏していたこと。これは視覚的に観客から見えやすいのもあるし、蓮沼自身やはり通常のライブハウスのステージのように演者が特権的な位置に立つのを避けたいという思いはあったのだと思う。しかし、蓮沼自身が低い位置に居ても、音は高い位置から降ってくることが自分にはどうしても気になってしまった。
20240330
オペラシティへ「TIME」を見に行く。
観劇前から予想はしていたものの、能を意識したという低刺激な内容に、正直うとうとしてしまった。また、超高級食材を揃えるまでは良いが「そのままで頂くのが1番ですよ」と卓上に並べられて、そのままスペクタクル一点突破で処理してしまうコントロールのやらなさも気になった。
それでも音楽に関しては文句無しで、特に冒頭から登場する宮田まゆみの笙は本当に良かった。笙は和楽器らしい見た目に反してPAD系シンセのような音が鳴り、中劇場との相性も良く空間全体を満たす心地よい響きになっていた。
時間というテーマをどう描くかについては、サステイン、つまり持続音を使うというのが本作の回答になっている。笙はまさにオルガン系の減衰しない楽器。舞台上のプールも田中泯が足を入れると水面が揺れて動きが長時間残り続ける。そして沈黙が訪れるとゆっくりと時間をかけてまた平らに戻る。こうしたゆったりとした時間の流れを音で感じながら、『邯郸』や『夢十夜』といったテキストが時折挿入されるという構成になっていた(なので眠くなる)。
しかし、坂本龍一が遺した作品が出し尽くされつつあると思うと、途端に寂しい気持ちになってくる。訃報を聞いた瞬間はそうでもなかったのに…。
20240414
風邪を引いてダウン。毎年季節の変わり目にやらかしてしまうな。