20240906

20240906

「きみの色」の熱を冷ますために水金地火木土天アーメンを耳コピ。

DAWで原曲の波形ぴったりにノートを置くのをやってみたけど、絶妙に違和感のある仕上がりに。アタックの違いでズレることに気を配るべきだったが後の祭り。むーん。

でもサンクラに曲をアップするのは良い。これまで曲が完成したという実感を得られないまま来たけれど投稿することで線が引かれて諦めが付く。今後もやっていこう。

アップ準備中に近藤銀河さんのレビューが公開されていたので読みながら作業していた。カメラを向けすぎないというのはなるほど。

やはりこの映画が特殊なのは、主役の3人が抱えている問題が明かされないまま進んでいくことにある。アニメーションなんだから展開の起伏を脚本に頼らず映像で作ろうとする。才能のある映像作家はそういった表現に是非トライして欲しいと思っているけれど、「きみの色」がどれくらい成功していたかは自分はまだ判断を保留している。終盤でトツ子がどこでもない仮想の庭で(幼い頃に挫折した)バレエを踊るシーンは本作で最も心を動かされるけれど、このときトツ子がどんな悩みをどう吹っ切ったのかはよく分からなかった。

20240907

抽選で落ち続けた長谷川白紙のライブの一般発売日。当然のように購入できず。全力は尽くしたので悔いはない。

MOMATの「フェミニズムと映像表現」を見に行く。数年前に久保田成子展を見てから女性作家のビデオアート作品をもっと見たいと思っていたところに、ずばりの展示が来た。企画展ではなく収蔵展の一角で開催するミニ特集だが、それでもありがたい。

リンダ・ベングリスの「ナウ」など、多重録画など映像ならではのテクニックを用いて女性の身体のイメージを乖離させる作品が気に入った。長谷川白紙が音楽でやろうというしてるのも恐らくこういうことだよね。

ジョーン・ジョーンズの「VERTICAL ROLL」も印象に残った。先日いわいとしお展でアナログテレビの走査線を使ったゾートロープマシンを見たが、本作もテレビの周波数を利用しており、アナログテレビをカメラで撮影することで周波数の違いにより映像が縦にスライドしていくというもの。編集機なしでこれが出来上がるのは驚き。

20240909

遂にやった・・・!

踏破した達成感と疲労感で頭がチカチカする。ワープポッドを運び直す参勤交代システムがあるのでもう1回来ますね。しかし、せせきさんはデス・ストランディングに匹敵する作品を個人で作り上げてしまったのか・・・。末恐ろしい。

20240913

imdkm&松浦知也の「ゼロから聴きたいテクノロジーと音楽史」を見る。(アーカイブスを半年も寝かしていた)

テクノロジーが音楽を民主化したという歴史観は今日至る所で語られるものの、その一歩先まで考えると、規格を通じて特定のフィルターを介した音楽感を他者に強制してしまう構図があるよね、というお話だった。

これは音楽理論の善悪にも通ずる話で、あれはあくまで西洋音楽のルールであって、民族音楽の世界ではコード進行どころか和音の概念を持たないものだってあることをすっかり忘れてしまう恐れがある。ただ、テクノロジーの話になると突然警戒されなくなる傾向があるのは確かにと思った。

そこから脱する方法となるとMAXが思い浮かぶ訳だけれど、またコンピュータとハッキング文化の話か、それもまた既知の価値観に絡め取られてないか、プログラミングができない人は参加できないのに民主化と言えるのか、と頭が痛くなった。

20240914

「エイリアン:ロムルス」を見る。傑作とは言いづらいけれど、迷走していたシリーズに火を入れ直す気概を感じた。

リドリー・スコットがバックに回ったことで暗喩が露骨になっていて、本作唯一の黒人がアンドロイド役に当てられていたり、生殺与奪の権利を手に入れて大暴れするもきっちり企業から搾取される展開があったりするのは「あ~」と思いながら見ていた。

監督のフェデ・アルバレスの過去作といえば「ドント・ブリーズ」だけど、あれは最終的に盲目のお爺さんが精液をスポイトで注射してくるドン引き映画だった。ロムルスも妊娠ネタや無重力空間にぶちまけられたエイリアンの体液を避けていく液体恐怖症的な描写もあったりして、単にホラー繋がりだけでない適正を感じられたのも面白かった。

20240915

ネットフリックスで「カラオケ行こ」を見た。やはり山下敦弘は最高。監督の原作もの映画の中でもトップクラスに良かったんじゃないですか。

ヤクザ達が極端にフィクションぽい一方で、脇役の中学生たちが絶妙な実在感を纏っているのがたまらない。原作も後で読んだのだけど、コミティアで頒布された単行本1冊分もない短編で、色々足せる余白が多かったのが良かったのかもしれない。でも広角レンズで画面端が歪んでるのはちょっと気になった。この規模の映画でこういうミスあるんだ・・・。

買い出しに家を出ると、小学生男子2人が道路を挟んで歩きながら、「おれスプラトゥーン課金したわ~!!!」「いいからこっちこいや~!!!」と会話してるのを見かけて、山下敦弘の映画の世界が現実にはみ出したみたいだと思った。

夜は代官山へLAUSBUBを見に行く。

LAUSBUBは決してキャリアの長いユニットでは無いので油断していたが、DJのテクニックを駆使して一度も演奏を途切れさせずにライブを最後まで進行するという凄まじいライブを披露されて度肝を抜かれた。これは今後も通い続けよう。機材はおなじみのMS-20 mini、minilogueまでは分かったが、他のモジュラー系は疎くて判断がつかなかった。

WWW Xでアフターパーティーがあるとのことだったが、流石に体力が持たないので恵比寿で担々麺を食べてから帰宅。

20240918

夜な夜な「TUNIC」をプレイしている。

確かに面白いのだけれど、誰でもクリア出来るように導線を引いた「ラ・ムラーナ」 といった具合で、実はさほど悩むことなくジェットコースターに乗っているかのように半自動で謎が解けていくのが気になる。普通に考えたら「TUNIC」のやり方の方が王道なわけで、触った順番が悪かったかも。でもどうせなら必死で説明書にメモを書き込む役割はプレイヤーにやらせて欲しいんだよなー。

20240921

池袋へチェルフィッチュの新作を見にいく。意識してなかったが東京芸術祭のプログラムだったようで、去年の島地保武×環ROYに続いてこれで2回目になる。

事前情報無しで見に来たが、驚いたことに黒沢清の映画を舞台化したような内容!タイトル通りリビングルームが舞台で、恐らく家族と思われる人々がコンテンポラリーダンスのような動きをしながら棒読みで会話している。それは「Chime」や「蜘蛛の糸」の食卓シーンのような不穏さを纏っていて、とっくに家族の形が崩壊してしまっていることが暗に示される。更には中盤に起きるある事件をトリガーにして、家具や演者たちが黒い布に包まれてブラックボックス化し、最後は世界が崩壊するという、これまたどこかで見たような演出で舞台の幕が閉じる。陰鬱だが不思議な爽快感があるという、黒沢清ファンであればニコニコしてしまう内容だった。

ここまで触れなかったが本作は音楽劇。あまり音楽劇の常識に詳しくないのだけど、演者の手前にいる演奏者達が稀に舞台で起きていることに反応して「どうしたんですか?」と首を振る演出があって、背景に徹するのではなくリアクションを取ることがかえって異化効果を生んでいるのも良かった。

演出は先鋭的ながらも、先日見た「消しゴム山」に引き続き人間中心主義の否定を取り扱っているように見え、岡田利規の中では地続きのモードの中にいるのが何となく分かった。