あfろファンから見る映画ゆるキャン感想

先に映画ゆるキャンの感想を述べてしまうと、「キャンプ場づくり」と「社会人の青春物語」のどちらが主題なのかを決め損ねたことで焦点がぼやけた失敗作だと感じた。

しかし同時に、本作の「キャンプ場づくり」という題材は、原作者のあfろ先生の作家性にぎりぎりまで接近してみせるような魅力があったと思う。

そこで本文では、あfろ先生の過去作について振り返りながら、映画ゆるキャンに埋もれたポテンシャルについて書いてみる。

処女作『月曜日の空飛ぶオレンジ』から見るあfろ先生の作家性

あfろ先生は、処女作から一貫して地方で生活する感覚を刻印した漫画を描いてきた。

しかしそれは『ゆるキャン』のような穏やかな形とは限らない。むしろ処女作である『月曜日の空飛ぶオレンジ』のように「退屈すぎる田舎をどうやってサバイブしていくか?」という切実な苦しみが感じられる作品の方が実は多い。

『月曜日の空飛ぶオレンジ』は、人口8万人の六日島で暮らす女子高生の生活を描くシュール系ギャグ漫画だ。

六日島は海に囲まれた土地だが、美しい観光地のようには描かれない。背景には集合団地やコンビニ、ホームセンターなど、コピー&ペーストで作られたような郊外の典型的な風景が選ばれており、荒涼とした印象ばかり受ける。実際、「六日島」の名前の由来は島でバイクレースが開催される6日間だけ人が集まることから来ており、何もなく、ただひたすら広いことが特色らしい。

同じ田舎が舞台でも、『ゆるキャン』では富士山の根元という恵まれた土地でキャンプを楽しむ姿が魅力的に描かれていた。それと比較すると、『月曜日の空飛ぶオレンジ』の六日島は意図的に「何もない土地」として描かれている。

でも大丈夫。六日島はさまざまな不思議な事が起きる特別な空間だ。

朝目が覚めると頭が箱になっている、スイカの自販機がある、植木鉢からは信号機が生える、何でもありだ。退屈なんてしない。・・・本当にそうだろうか?

本作における不条理ギャグの嵐は、その荒唐無稽な内容に反して意図は明確だと感じた。この退屈な土地では、無理やりにでも冗談を言ったり、妄想に耽ったりしなければやっていけないのだ。『月曜日の空飛ぶオレンジ』は、郊外の風景の中でシュール系ギャグ漫画をやることで、田舎をサバイブする感覚そのものを刻印しようとした漫画だ。

あfろ先生は浜松出身の作家で、芳文社の雑誌で漫画を連載するようになってからも上京せず浜松で漫画を書き続けていた。恐らく六日島の光景は著者の心象風景そのままなのだろう。

本作がやろうとしていることは、類似作を挙げるならばビデオゲームの『POSTAL』や『NO MORE HEROES』に近いと考える。両シリーズとも、殺風景な田舎で暮らす主人公が非現実的な出来事に巻き込まれる(自ら飛び込んでいく)作品だ。

同じ漫画作品なら『ふらいんぐうぃっち』が近い位置にあるかもしれない。魔女のいる世界という設定が建前で、著者の住む青森県弘前市での日常を描くことの方が前景化しているあたりなんてそうだ。

残念ながら『月曜日の空飛ぶオレンジ』は人気が出ず打ち切りになり、メインプロットが放置されたまま終了してしまった。最終巻のカバーを外すと、表紙にこれから予定していた展開が「予告編」として描かれている。

『ゆるキャン』までの道

その後、あfろ先生はヒット作となる『ゆるキャン』に至るまでに(単行本化されたものでは)2つの作品を描いている。

うち1つはオリジナル作品である『シロクマと不明局』で、もう1つは『まどかマギカ』のスピンオフである『魔法少女ほむら☆たむら』だ。

まんがタイムきらら編集部の黒田氏は、これらの作品の評価について以下のように語っている。

あfろさんはもともと、新しく創刊される雑誌に載せるために集めていた作家さんで4コマ作品を描いてもらっていました。デビューしてから、1作目、2作目と描いていただいたのですが、その時はまだあまり人気が出ず、どちらもそんなに長く続かないで終わってしまいました。他には、『魔法少女まどか☆マギカ』のスピンオフ作品も描いていただいて、コンテンツのパワーもありましたが、おかげさまでそれなりに反応が良い結果となりました。そうした中で、あfろさんにもう1作描いてもらいたいと思って、出てきたのが『ゆるキャン△』でした。

『ゆるキャン△』スタッフ対談インタビュー 第2弾 ~黒田悠生さん(COMIC FUZ/まんがタイムきらら編集部 編集担当)~(https://yurucamp.jp/news/special/5705)

2作目と呼んでいるのは『シロクマと不明局』のことだろう。私のお気に入りの作品で、シュールなギャグが続く作風はそのままに物語を結末まで描き切ることに成功した佳作だと思っているが、世間の評価はいまいちだったらしい。

ここで特筆すべきは、『魔法少女ほむら☆たむら』についてだ。

近年、人気作品のスピンオフ漫画を用意する流れが活発化しているが、あfろ先生もその流れに乗った一人だった。本作は読者の反応も良く、『ゆるキャン』を生み出すための地盤になったという。

しかし、あfろ先生の初期作品を知っている人ほど、『魔法少女ほむら☆たむら』の評判が特別良かったという話は違和感があるはずだ。本作でもあfろ先生のスタイルは変わっていないからだ。

あfろ先生は、まどかを救うためにループを続けるほむらの様子に、自作で描いてきた終わらない日常と近しい部分を見出した。『魔法少女ほむら☆たむら』は、ループの度に奇妙なパラレルワールドに迷い込んでしまうほむらの姿をやはり不条理ギャグを交えながら描く作品となった。

しかし、『まどかマギカ』のパロディであるという導線のおかけか、結果的に読者を迷わせない効果があった。これが好評の理由と考える。

『魔法少女ほむら☆たむら』でこだわり続けたスタイルで評価を得られたことで、作家の中で一区切り付いたのか、次作『ゆるキャン』では作風の大きな転換が見られた。

これまでのあfろ作品は「現実は退屈である」ことが前提にあった故に、鎮痛剤を使うようにシュールなギャグシーンが必然的に挿入されていった。これがギャグ漫画であるにも関わらずヒリヒリとした印象を与える要因になり、読者を緊張させていた。

しかし『ゆるキャン』では初めから主人公らが「非日常」にあたるキャンプを楽しむ姿を描く作品であり、退屈さを刻印しようとするニュアンスが完全に消失している。過去作とは真逆で、まるで凪のような時間が作中に流れているのだ。

ストリーラインも分かりやすいものになり、ソロキャン派のしまりんと初心者のなでしこが仲良くなっていくという、読者を一切迷わせない内容に変化した。日常がだらだらと続いていくことはなく、明確なドラマによって人間関係が変化していく。

あくまで田舎の生活を描こうとする点は変わらないが、逆に言えばそれ以外の要素は見事なまでに反転しているのだ。そんな『ゆるキャン』はご存じの通りヒット作となる。

あfろ先生はインフラを使う側、引く側の両方を経験した作家

現在の『ゆるキャン』人気は、やはりアニメ化により知名度が一気に拡大したところが大きい。

しかしこのアニメ化プロジェクト、驚くことに連載2話目の段階でフリュー側のプロデューサーである堀田将市氏の目に留まり、企画がスタートされていたという。『ゆるキャン』1巻が発売された頃には、芳文社側の編集担当である黒田氏にまで話が伝わっていた

黒田氏は浜松へ向かい、あfろ先生に直接アニメ化について報告した。そこで同時に、山梨へ引っ越すことを提案する。

あfろ先生はこれを受け入れ、甲府に移住することになる。奇しくも『ゆるキャン』の冒頭でなでしこが浜松から身延へ引っ越してくる展開をなぞる形になった。

この移動は自身の連載のためでもあるし、後から続くアニメスタッフのためにインフラを引く作業でもある。『ゆるキャン』はかなり早い段階からアニメ化されることを前提とした執筆体制で連載を続けていたことが推測される。

アニメ1期では単行本5巻までの内容が描かれた。1期が放送されたタイミングは5巻発売のわずか半年後という驚異的なスピードでのアニメ化だった。

『魔法少女ほむら☆たむら』において他人の引いたインフラを走ったあfろ先生は、『ゆるキャン』で逆にインフラを引く側に回ったのだ。

単行本1巻が発売された2015年時点では、浜松と甲府を繋ぐ高速道路である中部横断自動車道はまだ完成していなかった。

その後アニメはヒットし、2期と映画版の制作が発表される。

2021年、中部横断自動車道は全線開通され、浜松と甲府間の移動は1時間にまで短縮された。このとき『ゆるキャン』と中部横断自動車道のタイアップが行われ、道の駅ではグッズの販売やスタンプラリーが開催された。

インフラを使う/引くうえでの苦さ

ここで少し話を巻き戻す。

インフラを使う側、引く側の両方を経験したあfろ先生だが、私個人の意見としては『魔法少女ほむら☆たむら』でのあfろ先生の走り方は行儀の良いものではなかった。

自身の作風を活かしたスピンオフ作品とするために、まどかを救うためにほむらが時間を巻き戻し続ける様子を永遠に続く日常のように描いた。しかし連載が続くにつれてまどかを救えないことへの焦りは消えていき、ほむらの行動に遊びが目立つようになる。

並行世界のほむら達が日々の疲れを癒すあけみ屋が登場したあたりで、私は見ていられなくなった。原作には無かった、重要な事を見ないふりして日々の生活をやり過ごしていくような、生々しい嫌なニュアンスが『まどかマギカ』の世界に混入していた。

こういった切り口を、斬新なパロディとして見るか、グロテスクなものとして見るかは意見が分かれるだろう。

では、逆にアニメ版『ゆるキャン』はどうか。

こちらは原作のストーリーを忠実になぞりつつ、映像作品ならではの面白さが出るように細部を翻案していくという正当な作品に仕上がっていた。

デフォルメ寄りのあfろ氏の絵と比べて、アニメ版は自然の風景が映えるように背景を写実寄りにしているなどの見せ方の違いはあるが、キャンプやツーリングの楽しさを伝えるというコンセプトは両者とも一貫しており大きな違和感はない。

アニメ版ではふじさん心太が皿の上でばらばらになる姿がオチになるよう翻案された。(動画ではその方が映えるから)

そんなアニメ版『ゆるキャン』だが、実はテレビでは放送されていない、ディスク限定特典の『サバキャン』というオリジナルエピソードがある。

ここでは本編と打って変わって、飛行機事故により無人島に取り残された野クルメンバーがサバイバルキャンプに挑む姿を、トンデモ回としてギャグタッチで描いていく。しかし、最後の最後で正気に戻ったなでしこが涙を流す様子を無音でシリアスに演出するなど、リアリティラインがどこに設定されているのか分からない混乱した印象を受けた。

このエピソードを見た時、高いクオリティを維持していたアニメ版『ゆるキャン』1期の締めがこれなのかと脱力してしまった。しかし同時に、あfろ先生が『まどかマギカ』に対してやった事とは違い、アニメ版は原作に忠実であろうとするゆえに、うまくオリジナルエピソードが作れなかったように感じた。

『ゆるキャン』はフォーマットがかっちりと設計された作品で、本編に近いスタイルでやるならば具体的なモデル地へ遠征する展開になってしまう。短編に関してはあfろ先生自身が『へやキャン』という番外編を大量に描いており、アニメ版でもスタッフロールの後に流す形で登場させてしまっている。『ゆるキャン』は未開拓な領域というものが既になく、オリジナルエピソードを作るにはそれなりの筋力が必要になる。

アニメ版制作陣はこれを理解しているからこそ、オリジナルエピソードではあえて『ゆるキャン』的ではない題材を選んだのだと感じた。『サバキャン』のオチは野クルメンバーが「これはキャンプじゃなくて遭難だ!」と正気に戻るというものだが、これは積み上げてきた描写を盛大にひっくり返すことでカタルシスを生む演出であると同時に、内容に対するあらゆる批判を無効化する効果もあるのだ。

しばらくして映画『ゆるキャン』の話を聞いたとき、あまり期待が持てず見に行く気にならなかった。『サバキャン』を見る限りでは、アニメスタッフ側にオリジナルエピソードを作りたいという欲求が見えず、手堅いばかりの作品に仕上がるのではと感じたからだ。

しかし、映画『ゆるキャン』ではキャンプ場づくりを題材にすると聞いたとき、初期あfろ作品が持っていた魅力まで包括するような重要な映画になるのではないかと衝撃を受けた。

映画『ゆるキャン』に期待したこと

あfろ先生の原風景とは何もない退屈な空間であり、そこでギャグを繰り出して空白を埋めていくことにモチベーションを持っている。それは日常を『マインクラフト』のようなサンドボックスゲームをプレイする感覚で生きていくようなものだ。

その上で映画『ゆるキャン』が題材とするキャンプ場づくりを見てみると、まさしく現実世界でサンドボックスゲームを再現してみせるような行為と言えるだろう。空っぽの土地があり、手を加えて秩序をつくり、自身の思う空間に整えていく…。

まるで、『ゆるキャン』の世界の中で初期あfろ作品が持っていた魅力を再現しているかのような構図がある。しかも、社会人になった野クルメンバーが再集結して一時だけ学生時代のように過ごすという状況と、作風があfろ先生の初期作時代に戻るという点が、見事なまでにシンクロしているのだ。

もし期待通りの映画になっているならば、あfろファンであれば必見の内容となる。

『月曜日の空飛ぶオレンジ』は、主人公がデバッグモードのように物体を出現させる能力に目覚めることで世界が壊れていく様子が描かれた。あfろ先生の抱えるテーマを最も直接的に描いている。

映画『ゆるキャン』は「キャンプ場づくり」というあfろ的テーマを、原作と異なるアプローチで描いてしまった作品

映画本編の感想としては、前半までは非常に素直に楽しむことができた。

テレビシリーズでも特徴的だった映像的な演出は更に強化されており、キャンプ場で食材を切る、カニから身を取り出して食べる、といったシーンを、キャラクター達に会話させないまま静かに見せていく。買い切り型の映画だからこそできる演出を意識的に採用しており、度々訪れる行為に没頭する時間が、本作の最大の魅力になっていると思う。

また、あfろ先生のファンとしては、しまりんの上司でアフロヘアーの「刈谷」の登場は嬉しいサプライズだった。あfろ作品では『シロクマと不明局』でもアフロリーゼントの「局長」というキャラクターが存在し、やはり主人公をサポートする上司役だった。映画『ゆるキャン』のキャラクターデザインはあfろ先生が担当しており、アフロ上司の系譜が思わぬタイミングで更新された感動があった。そんな彼は初登場シーンでしまりんに「ひとくちツカぽん」という菓子を差し入れてくれる。(ツカぽんは『月曜日の空飛ぶオレンジ』に登場する担任教師)

シーン単位で見ると見所の多い映画になっているが、冒頭に述べたとおり問題が無いわけでは無い。「キャンプ場づくり」と「社会人の青春物語」のどちらが主題なのかはっきりせず、焦点がぼやけてしまっているのだ。

本作の構成は大きく二部に別れている。キャンプ場で手を動かすことに集中するのは実は前半のみだ。中盤にキャンプ場づくりに危機が起こり、葛藤と行動を起こすのが後半だ。

問題はこのハプニングの内容だ。キャンプ場開発の企画は山梨県行政で働いている千明が野クルメンバーを巻き込む形でスタートしているのだが、開発中のキャンプ場で土器の破片が見つかったことで土器発掘記念館を建てる方針に計画が変更されてしまうのだ。

中盤に危機を起こすのはドラマのために必要なことであり理解できる。しかし、これまで現場で作業に没頭する描写を積み上げてきたのに、それとは関係のない、行政との交渉という異なるレイヤーでのアクションで物語に決着がついてしまう。

制作側の意図としては、野クルメンバーが社会人になったからこそ出来る展開として、行政の介入に泣き寝入りせずに交渉することで自己実現できるかという「社会人の青春物語」の要素を含みたかったのだと思う。しかし、現場と行政という2つのレイヤーを串刺しにして語ってみせるような構成がつくれておらず、1本の映画としてちぐはぐな印象を受けてしまう。

何より気になるのは、説得力のあるドラマをつくるための試練として、現場作業では弱く、組織レベルで意思決定することの方が上にあるという、嫌な価値観が薄っすらと滲み出ていることだ。行政との交渉が成功した瞬間に、作業が中断していたはずのキャンプ場が完成したことになっていたのは唖然としてしまった。

また、行政と交渉して妥協案を探るという行為も、キャンプ趣味や原作が内包する価値観とコンフリクトを起こしていると感じた。

あえて街を離れて不便の多い自然の中で過ごすキャンプという趣味は、効率ばかり求められる社会から離れて自分なりの時間の使い方を求めるようなカウンター的な価値観を持つ。それは、わざとらしいドラマを描くことを嫌いあえて退屈な日常を描いてきたあfろ氏にとって恐らく共感し易いものであり、だからこそ不条理ギャグから離れて素直にキャンプを楽しむ『ゆるキャン』を書けたのだと思う。それ故に、「大人になることとは他者と交渉できることだ」という価値観を見せる映画『ゆるキャン』の展開は、理解しやすいながらもどこか違和感を残す。原作の延長として映画を作るならば、しまりんがわざわざ冬にソロキャンに挑む人間だったように、マジョリティな価値観に囚われずに自由に生きる野クルメンバーを見たかったと思う。

あfろ先生の理想の社会人像ってこんな感じよ

映画のラストでは、キャンプ場と土器発掘記念館をミックスした施設を提案することで試練を切り抜ける。しかし、横槍に悩まされながら完成させたキャンプ場づくりによって、野クルメンバーが満足できたのかが曖昧になっているのは良くなかった。この映画のキャンプ場づくりは地域おこしのための企画ではなく、野クルメンバーの内発性に基づいて行われている設定なのだから、ただ完成させることがゴールではなかったはずなのだ。

まとめると、本作は脚本レベルでは手堅いものに仕上がっているが、行為に没頭する姿をアニメーションで描くというビジュアル側の魅力と脚本が乖離している。更に、原作やアウトドア趣味が内包している価値観ともコンフリクトを起こしているなど、全体のまとまりが悪い作品となってしまった。

勝手に理想の映画『ゆるキャン』を妄想する

キャンプ場づくりが主題であるならば、『七人の侍』や、『ガルパン劇場版』のような構成が良かったのではないかと思う。両者とも戦闘シーンこそが主題であると定義し、前半はひたすら準備を行い、戦闘が始まってからは一度も中断が入らずそのままエンディングまで駆け抜ける。この構成はスポーツ観戦を見ているような強烈な没入感を観客に与えると同時に、物語のピークを戦闘シーンの中で迎えることができる。これらと同じように、映画『ゆるキャン』も現場作業を後半に持ってくる構成が良かったのではないだろうか。

または、あfろ氏もファンを公言している『水曜どうでしょう』の「2019新作 北海道で家、建てます」の撮り方はどうだろうか。本作はどうでしょうメンバーが北海道赤平にツリーハウスを建てるという企画だが、作業に着手してからは建設現場以外をカメラに写さない。会話から赤平の街で昼食をとっていることが分かるが、どうやらカットしているらしい。この編集指針により、視聴者は社会から切り離されて建設現場が世界のすべてであるように没頭することができる。本作はどうでしょうの中でも最悪と言えるオチがつくが、それがインパクトのあるものになったのはこの撮り方故だろう。

あfろ先生最新作『mono』のスタイル

ここからは余談になる。

色々指摘してしまったが、『ゆるキャン』のメディアミックスは総合的にはクオリティが高く、原作を読んであfろ先生の価値観に触れていた人だけが薄っすらと違和感を覚える程度におさまっていると思う。そこから更に氏の作家性を追ってみたいという人に薦めたいのが最新作である『mono』だ。

本作は、編集部より『ゆるキャン』と並行して4コマ漫画を連載することを提案されたことからスタートした。甲府を舞台に写真部に所属する女子高生らの日常を描くというもので、『ゆるキャン』に近いフォーマットとなっている。手堅い企画を狙ったのかと思いきや、意外にもあfろ先生の本来の気質を隠さない癖のある内容に仕上がっている。

本作が『ゆるキャン』と決定的に違うのは、ドラマを極力廃することで、ルポ漫画に近いドライな味わいに調整されていることだ。しまりんとなでしこが仲良くなっていくような明確なストーリーラインはなく、あfろ先生自身の甲府観光を、登場人物らに代弁してもらっている感覚が強い。

分かりやすい例として、『mono』の登場人物らが『ゆるキャン』の聖地巡礼を行うエピソードがある。つまり、『mono』の世界は『ゆるキャン』が漫画として存在する世界であり、限りなく現実に近いリアリティラインで描かれていることを示している。主人公らは、『ゆるキャン』で創作されていた部分に突っ込みを入れながらロケ地巡りを進めていく。

理想と現実のギャップを確かめる

また、登場人物らの設定にも本作のコンセプトが隠されている。

主人公である雨宮さつきは憧れの先輩を目当てに写真部に入部するが、先輩が卒業したことで抜け殻になったところから本作はスタートする。

その後、人数不足による写真部と映画研の合併で加入してくる敷島桜子も、部活動に励んだ日々を過去のものとして回想するシーンが描かれる。

つまり、『mono』の主役である女子高生らは、劇的な青春時代がすでに過ぎ去ってしまった存在として描かれている。同じ「きらら」作品で例えるなら、平沢唯らが卒業していなくなった時点から『けいおん』を始めるような異質な設定だ。彼女らは写真部らしい、あるいは映画研らしい作品づくりはせず、甲府の観光地を巡りながら「RICOH THETA」や「HX-A1H」、「GoPro」といった機材で世界を撮って遊びながら残りの時間を過ごしている。

『mono』は「現実は退屈である」とまでは言わないが、フィクションとしての誇張を外した甲府での生活を描くことで、曖昧な現実を生きる感覚を刻印しようとする。初期あfろ作品が持っていた魅力を否定せずにリバイバルしてみせた重要作である。

本文を書いている時点で、『ゆるキャン』と『mono』は並行で連載されている。同じ土地を異なるアプローチで描いた2作を同時に読むことができるという、あfろファンにとって幸福な時期だ。大規模なメディアミックス計画も落ち着き外圧がなくなった今、あfろ先生がどのような漫画を書いていくのか、引き続き動向を追っていきたい。