20210612 青森県のせむし男

今年2度目の万有引力の公演日がやってきたので、ザ・スズナリへ。

今回上演されたのは、万有引力の前身である天井桟敷の旗揚げ公演だった「青森県のせむし男」の新演出版。オリジナル版は寺山修司が主演に美輪(丸山)明宏を起用した事で有名。

万有引力のコロナ以降の企画は、全公演で演目が切り替わる「√ -何か面白いことはないかと劇場に出かける-」など、「この時代に演劇で何すんの?」という実験的なものが多くて、原点に立ち戻る今回の公演もその一環にあるのかなと思った。

会場に入ると壁には「大山デブコの犯罪」や「犬神」など天井桟敷の過去公演のポスターが貼られていて、新作もガシガシやっていく万有引力らしくないレトロスペクティブな雰囲気。舞台は中央に円形の巨大な足場が一つ、その更に手前に独立した足場が2つ用意されていて、そこを演者が行ったり来たり出来るようになっている。仮設された2階には三味線を持った奏者が待機していて、「身毒丸」を思わせる音楽劇スタイルの編成。

観劇後の最初の感想は、元が天井桟敷の初演だけあって、話がひたすらシンプルで分かりやすい!だった。万有引力の作品は「マジでなんも分からん…」で終わってしまうような捉えどころのないものも少なくないため、逆に衝撃を受けた。話の大筋も寺山演劇ではお馴染みの母と息子の物語で、まさに入門編といった感じ。

ただし、流石に万有引力のやることなので簡単に消化できるようなものにはなっていない。例えばその分かりやすい物語は演者のセリフで粛々と説明的に進行されてしまい、そのテキストで語られる世界を置いてきぼりにするかのように発達した舞台演出が先行していくので、観客はテキストを理解するのでなく演出に身を晒す様な感覚で見てないと置いてきぼりにされる。そこは情報量が多くてついて行くのがやっとという、いつもの楽しい万有引力の演劇だった。

また、ストーリーについて考えたことを少し書く。(万有引力の演劇は演出先行型なのでテキストベースでストーリーについて考えることはあまりしないのだけど、今回は気になる点があったのでメモしておく)

青森県のせむし男は、帳簿をもった役人が失踪して人々の血縁関係が分からなくなるというエピソードからスタートする。これはアングラ演劇でよく取り上げられる、戦後の復興により高度にシステム化されていく日本への反発的なものに見える。またせむし男という題材も、ノートルダムのせむし男を下敷きにしつつ、クリーンな国からはじき出されるであろう人々を取り上げるという寺山演劇の見世物小屋的な要素を含んだものになっている。

しかし、EDにおいてこのせむし男は最初から存在せず、青森という土地のお化けのようなものなんだという、幻の押井守版ルパンみたいな展開が待っている。これが自分の中の寺山演劇のイメージと合わなくて驚いた。

寺山演劇は観客を驚かせるためだけの展開を入れようなんて変なサービス精神は無い。なのであくまで自分の考えだけど、これは見世物小屋の復権を掲げる天井桟敷ながら、実のところせむし男のような人間が生きられる場所はとっくに失われており、我々はその後の世界に生きているのだということを示したかったのかなと思った。これはなんというか村上春樹あたりがやりそうなモダンな手法で、寺山修司もこういうことやってたんだ…という驚きがあった。

劇の最後は、恐らくオリジナル版を再現した演出として、「次回公演は大山デブコの犯罪です」という挨拶を持って終了した。「勿論嘘でございます」とも付け加えていた。いや、本当にやってくれて全然いいのだけど。