このブログの文章はいつも着地点を決めたうえで書いているが、今回はアニメ版『ぼっち・ざ・ろっく』が終わってしまった悲しみを埋めることを目的に、何が自分に刺さったのかを行き当たりばったりで分析しながら書き殴ったものになる。
それ故に内容が肥大化しているが、まつだひかり以降のロック漫画の流れが整理されたり、日常アニメのリアリズムの根拠が変遷していることに気付いたりと、色々収穫があったため公開する。
原作
オタク文化発のロック漫画の流れ
バンドを題材にした漫画は数多く存在するが、『ぼっちざろっく』について語るうえで触れておきたい作品をいくつか紹介する。
それらは「オタク文化発のロック漫画」という括りに入ると思う。
知名度の高い『けいおん』については触れず、それ以降に登場した作品を取り上げていく。
まつだひかり『女子高生エフェクターを買いに行く!!』『まことディストーション』
まつだひかりは動画サイトに投稿した『女子高生エフェクターを買いに行く!!』で注目されたイラストレーター。後に『スライディングV』や『まことディストーション』といった漫画作品を発表している。
まつだひかり作品の特徴は、自身のバンド経験に基づいた、精密な音楽機材の書き込みにある。『女子高生エフェクターを買いに行く!!』は自主制作という事もあり、一般層には伝わらない音楽あるあるネタのみで作品が構築されているが、本作のヒットにより同様のスタンスの漫画作品を商業誌で連載することができた。
まつだひかりの作品群は『けいおん』では省略されていた音楽描写を書き直す。以降、オタク文化発のバンド漫画に求められるディティールが引き上げられることになる。
余談だが、まつだひかりが角川で活躍する一方、きららサイドからもノッツによる宅録を題材にした『ソラミちゃんの唄』が連載されるなど、ディティールの高い作品をプッシュする動きがあった。ノッツはバンド活動ほか若干Pとしてのボーカロイド楽曲制作の経験があり、pixiv上では『DAWガールズ』というDTMソフトの擬人化漫画を発表している。
コーンフレーCu『ロッキンユー!!!』
コーンフレークCu(石川香織)による『ロッキンユー』は、2018年からジャンプ+で連載されていたバンド漫画で、時期的に『ぼっちざろっく』と並走していた作品になる。
コーンフレーCuの魅力はギザギザとした癖のある絵柄にある。キャラクターの強い自意識が表に出てきたかのようなその画風で、「コミュ障」や「邦ロック」をテーマに描いてきた作家だ。
主人公の不二見アキラはNUMBER GIRLを敬愛している。『ぼっちざろっく』が参照するアジカンもNUMBER GIRLの影響を受けており「N・G・S(ナンバーガールシンドローム)」という楽曲まで制作している。そもそも本作の読切版のタイトルが『ロッキンオン』だったりと、(もうすっかり聞かない言葉だが)ロキノン系を強く意識している。
また、本作は実在したオーディション企画である「閃光ライオット」及び「未確認フェスティバル」を勝ち上がることがメインプロットとなるが、この点も『ぼっちざろっく』と重なっているなど、同時代性を感じさせる。
その一方で、『ぼっちざろっく』が4コマ漫画であるのに対し、『ロッキンユー』は絵の魅力で勝負するように大胆なコマ割り演出が多用されるなど、漫画作品としてのアプローチは真逆だ。
現在は集英社との契約を解除し、自主出版の形で『ロッキンユー』の発売、及び続編『ロッキンニュー!!!』を連載中。
2022年には、同じく自意識をテーマに扱うテキストアドベンチャーを制作してきた瀬戸口廉也と合流して、『BLACK SHEEP TOWN』という傑作を生み出した。(こちらで本作の感想を書いています)
ぼっち・ざ・ろっくの位置
先行作品をパロディしながら外すことでフックを生む
前置きが長かったが、ここから『ぼっち・ざ・ろっく!』の話に入っていく。
『ぼっちざろっく』の著者であるはまじあきは、少し変わった経歴の持ち主だ。
元々「ちゃお」でデビューし少女漫画を書いていたものの、萌え漫画を書くために「きらら」に転身した経緯がある。また、同じきらら誌でも作品ごとに絵柄を変化させているなど、簡単に経歴を眺めたのみでは核が理解しにくい。
そこで、はまじあきにとって『ぼっちざろっく』はどういった位置づけの作品なのか、キャラクターデザインからコンセプトを読むところから始めてみる。
キャラクターデザインからコンセプトを読む
きららでは女児向け漫画を思わせるカラフルな髪色のキャラクターが今でも少なくない。アニメ化された作品では『ごちうさ』や『こみっくがーるず』などがある。カラフルな髪色は、理想的な可愛いキャラクターの記号として使われている。
『けいおん』はその逆で、現実的なデザインのキャラクターが部室で放課後を過ごす姿を描くことで、本物の女子高生の日常を眺めているような感覚を生み出すコンセプトだった。『ハルヒ』で実写映画の技法をアニメに持ち込んで成功させた京アニが、次なる題材として『けいおん』を選んだのはこのコンセプトに共感したためだ。
では『ぼっちざろっく』はどちらの路線だろうか?
カラフルな髪色を採用しているところからは理想化されたキャラクターを描こうとする意思を感じるが、一方で下北沢シェルターをモデルにしたライブハウスを登場させたり、チケットノルマといった商業的な残酷なルールを提示する辺りはリアル路線だ。本来混ざりにくい物をあえて混ぜようとしているように見える。
きらら的な作品の枠を意識しながら外すことでフックをつくる
『ぼっちざろっく』が狙っているのは、きらら的な理想化されたビジュアルのキャラクターに、現代人の露悪的な行動をさせることでフックをつくる事だと思う。
ぼっちちゃんはきらら主人公らしいピンク髪にも関わらず、ジャージ姿で目元には網がかけられた「陰キャ」風のデザインだ。バンド要素以前に、一目で違和感を覚えるビジュアルがつくれていることが『ぼっちざろっく』は優れている。
1話の内容も、ぼっちちゃんがコミュ障である故に高校で友達が一人もいないという、日常4コマを始めたくても始められない最悪の状況からスタートする。
当初ぼっちちゃんは分かりやすく可愛いデザインだったらしい。しかし、担当編集が「陰キャ」を強調するようはまじあきにアドバイスしたことで、見た目にその性格が表れるよう変更されたという。
また、バンドメンバーのキャラクター設定は、『けいおん』を意識しながら外したものだ。
例えば、ドラムは黄色でムードメーカー、ベースは青色でクールというのは『けいおん』のパロディに見える。しかし、秋山澪の位置にいるはずのリョウさんが借りた金を返さないヒモベーシストに設定されているのは、最悪のギャップになっている。
ちなみに、本作はパロディとは関係ない、独自のキャラクター設定もよく練られている。
結束バンドのメンバーは先輩2人、後輩2人という構成だが、リズム隊(ドラム、ベース)に先輩2人を割り当てることで自然とキャラが立つようになっている。先輩組と後輩組で分けることで人間関係のバリエーションを増やしているのは、『シャニマス』のノクチルと同じ仕組みだ。後藤家と伊地知家の両方が年の差がある姉妹で、先輩の虹夏ちゃんが妹、後輩のぼっちちゃんが姉という点対象な設定も、同様の意図に見える。
はまじあきの経歴とキャラデザの選択
ちなみに、きらら的なキャラクターが露悪的な行動をする要素は、前作『きらりブックス迷走中!』の時点で登場している。本作は、令嬢の主人公が社会勉強のために書店で働くことになるが、徐々に趣味や思考がオタク文化に汚染されていき、別人に変わり果てる姿が描かれている。
それはさておき、本作は『ぼっちざろっく』と同じ作家が書いているとは思えないほど絵柄が異なるのに驚かされる。キャラクターの輪郭が太く書かれていて、強くデフォルメを効かせたキャラデザだ。書店で働く同僚も、幼児体型で制服のような衣装を着た女の子ばかりであるなど、きらら色が強めになっている。
本作は、はまじあきが「きらら」に移籍してからの初作品というのもあり、作家の思う「きらら」像を詰め込んだ理想化されたビジュアルを狙ったのだと思う。
また、実は2022冬コミで出た「ブルーアーカイブス」の同人誌もアウトラインが太いデフォルメ路線だ。つまり、はまじあきは『きらりブックス迷走中!』から絵柄が変遷していったのではなく、『ぼっちざろっく』では意図的に封印して変えたことが分かる。
『ぼっちざろっく』も一般的な漫画作品と比べればデフォルメが効いている方だが、ギャグシーン以外は輪郭線は細く、前述の2作と比べればリアリティラインが高めに設定されている。
はまじあきの中で『ぼっちざろっく』は現実寄りの作品であり、ぼっちちゃんのメンタルが孤独によりささくれていることや、下北沢の片隅でチケットノルマに苦しみながらバンド活動を続ける4人組が存在することを、現実味を持って感じられる絵柄を選択しているのだと思う。
理想的なきらら的世界を期待させながら、そうはいかない現実をチラ見せすることで切実な痛みを表現するのが『ぼっちざろっく』のキャラクターデザインだ。
青春物語としてのぼっち・ざ・ろっく
そうしたキャラクターデザインで描かれるぼっちちゃんの物語とは、理想と現実のギャップに引き裂かれるティーンエイジャーの青春物語になる。
それも、4コマ漫画らしい永遠と日常が続くような展開にはならず、時に恐怖を覚えるテンポで時間が過ぎ去っていく。
後悔をベースにした青春物語
作中でぼっちちゃんが「青春コンプレックス」について語るシーンがあるが、そもそも青春期が明るいものであるイメージは、様々なプロセスをすっ飛ばして生まれた虚像のようものだ。
10代とは未成熟で何かを実現する力が無い時期のことで、スキルが無いなりに何かに挑戦しても、大抵は失敗して後悔する羽目になる。それから痛みを忘れて過去の自分を他人のように振り替えられるようになったとき、ようやく当時の1回の失敗なんて大した事では無かったと気づき、あの頃はひたむきだったと過去を肯定したものが青春物語として扱われる。つまり、リアルタイムで体験する青春とは、殆どの場合痛みに耐える経験になる。
ぼっちちゃんが抱える本当の問題とは、友達が欲しかったはずなのに、コミュニケーションに失敗する痛みを恐れて他人に話しかけない中学生時代を過ごしたことにある。バンドで人気者になれば友達ができる筈だとギターの練習に打ち込み、そのまま友達ができず3年を無駄にするというプロローグはそういう意匠になっている。
ぼっちちゃんは結束バンドに勧誘されるが、結局ギターの練習はバンドでの演奏には役に立たず、経験値不足による失敗と後悔を繰り返すことになる。しかし、ぼっちちゃんがステージに上がる姿が、痛みを伴う青春期のステージにようやく上がる事に重ねられているなど、直球の青春物語の構図になっている。
作中の時間が思いのほか一瞬で過ぎ去る恐怖
『ぼっちざろっく』を読んでいて真に驚くのは、そんな綺麗な構図に収まったぼっちちゃんの内面の葛藤を中心とした話運びも、文化祭編までで早々に終了してしまうことだ。
それ以降は結束バンドがオーディション企画を勝ち抜くために、世間的な評価を求めて奔走するなど、内面的な成長のみではどうにもならない展開になる。一度挑戦したら戻れない不可逆的な語り口の変化に、止まらない時の流れを感じてしまう。
実際、作中の時間も一瞬で過ぎ去っていく。
1巻で高校デビューに失敗したぼっちちゃんも、3巻時点ではもう2年生になっている。3年生になった虹夏ちゃんに至っては、受験勉強のためライブハウスでのバイトに顔を出さなくなる。
最も印象深いエピソードとして、自動車教習所に同年代の知人が集う回がある。高校3年の夏ということで、既に決定した互いの進路について静かに報告し合う。リョウさんは進学せずに音楽活動に専念するようで、早くも学生としてのモラトリアムが終了してしまう。
リスナー側から音楽漫画を描くことで変わるもの
チームプレイでまつだひかり以降のディテールに挑む
下北沢シェルターで下積みをしたアジカンに重ねるように、結束バンドは明確に人気バンドを目指して成長していく。
ただし、本作はあくまでキャラクタードリブンな日常劇がメインであり、バンド要素はドラマを描くための借りものと割り切る舵取りをしている。
例えば、結束バンドがどんな音楽性のバンドなのか、ライバルであるSIDEROSがどう優れているのかは説明しない。代わりにSIDEROSの大槻ヨヨコが、ぼっちちゃんとは異なる方向性にエッジの効いたコミュ障少女であることばかりよく伝わる。
これは、読者を置いてきぼりにしないためでもあるし、そもそもはまじあきが音楽に関してはプレイヤー側でなくリスナー側だったことも恐らく関係している。
それでも本作がまつだひかり以降のリアリティラインを踏襲できているように見えるのは、音楽監修にInstant氏を迎えてチームプレイで制作されているからだ。
Instant氏はYoutubeチャンネルを覗くとすぐに分かるが生粋のプレイヤー側だ。また、ぼっちざろっくアンソロジーにも参加している通りイラストも描ける人物で、少女と音楽機材を題材にした同人誌を制作するなど活動は多岐にわたる。
その即売会ではまじあきの担当編集である瀬古口氏に話しかけられ、監修の協力を依頼されたという。(出典はInstant氏のYoutubeライブですが、アーカイブが残っていないため誤っていたら申し訳ない…)
いざチェックしてみると、ギターにヘッドホンがアンプを介さず直刺さりしていたり、踏み込んで使うはずのエフェクターが墓標のように直立していたりと、ツッコミどころは色々あったようで、そこから音楽関連のネタ出しを含めて制作に参加するようになる。
直近の音楽シーンを参照することが想定外の儚さを生む
やはり『ぼっちざろっく』はまじあきのリスナーとしての音楽遍歴がよく出ている作品だろう。各話の扉絵が様々なロックバンドのMVのパロディになっているのは有名だ。
しかし、自分にとって本作で最も印象深い引用は、フェス編で結束バンドが「未確認ライオット」に挑む展開になる。
これは明らかに実在したオーディション企画である「閃光ライオット」及び「未確認フェスティバル」をモデルにしているが、この展開を初めて読んだ際は辛い気持ちになった。これらのオーディション企画は既に終了しており、2010年代の邦ロックシーンを追っていた世代にしか伝わらない内容になっているからだ。
「閃光ライオット」はスクールオブロックとSony Musicが主催する、10代のアーティストのみが参加資格を持つオーディション企画だった。初回の2008年からガリレオガリレイのような人気バンドを輩出するなど一定の存在感があったが、2014年に終了する。翌年からはSony Musicの代わりにタワレコ、ドコモ、レコチョクの3社で構成されたEggsプロジェクトを主催に迎えて「未確認フェスティバル」の名で継続するも、2019年の開催を最後にフェードアウトしている。
『ぼっちざろっく』も『ロッキンユー』も、10代が主役のバンド漫画だから、このネタを使わない理由はなかった。連載中に企画が終了してしまうのは誤算だったろう。
終了の理由は明かされていないが、2014年にSony Musicが主催から抜けた時点で、内部ではこの企画の必要性について議論があったと推測される。
2019年に『ロッキンユー』の連載が終了した際、KAI-YOUによるコーンフレーCuへのインタビューにてバンドの存在感が薄れていることについてどのように意識していたか問う場面があった。その根拠には、ネット発のクリエイターやアイドルグループの台頭が挙げられている。
『ロッキンユー』や『ぼっちざろっく』にもその空気は反映されている。
『ロッキンユー』で部員を集めるためのライブで披露されたのは「ワールズエンド・ダンスホール」だったし、『ぼっちざろっく』に登場する佐々木次子は「ヒップホップにしか興味がなく、喜多達がやってる様なバンドは聴かないわ」とぼっちちゃんに自己紹介する。
両作とも実在のバンドの引用を隠さないスタンスだから、作家の意図しないかたちで時代の空気が梱包されてしまう。10年後に本作を見返した時、バンドメンバーらのドラマは古びなくても、彼女らを取り巻く状況は伝わらなくなっているかもしれない。すでにフェス編のモデルに関しては、今も生き残っている「出れんのサマソニ」の方が連想されることになるだろう。実際『ぼっちざろっく』において、ファイナルステージの場所は予告されていた新木場スタジオコーストでなく、詳細不明の野外フェスとして描かれた。
ちなみにアニメ版『ぼっちざろっく』の製作であるANIPLEXは、Sony Musicの完全子会社だ。もしアニメ版の2期が製作される場合、自身も関わった邦ロックシーンの一端をアニメの中で再現する構図になる。
2023/02/06 追記:
この投稿の作成中に閃光ライオットがまさかの復活!!! Sony Musicが再び主催に入り、名前も閃光ライオットに戻りました。前述の悲観的な文章も、ある時代の空気の梱包としてここに残します。
プレイヤー側だったまつだひかりとリスナー側だったはまじあきが写し取るもの
ここまで整理してきて思うのは、『ぼっちざろっく』や『ロッキンユー』が特定の時代を濃厚に保存する作品に仕上がっているのに対して、まつだひかり作品や『けいおん』の古びなさが目立つことだ。
その違いは、音楽にまつわる漫画をプレイヤー側とリスナー側のどちらの経験から描こうとしたかで自然と生まれたものと考える。
まつだひかりはプレイヤーとしての経験や機材に注目するため、時代に依存しない普遍性のある内容になる。そしてもう一つの傾向として、バンドメンバーで音を合わせるプリミティブな楽しさを経験していることにより、あえて人前で演奏したいという欲望が薄れる。まさに『まことディストーション』はスタジオ練習する女子高生らの日常を見せることがコンセプトの作品で、意図的に一度もライブをさせないまま完結した。
これを踏まえると、『けいおん』がどのようにして生まれたのかが分かりやすくなる。
『けいおん』のかきふらいは大学生時代にバンド経験があり、単行本のカバーで自身のギターコレクションを紹介しているなどプレイヤー側だ。かきふらいは、『BECK』のようなバンドの知名度を求める価値観とは違う、現実の演奏そのものの楽しさを知っていた。つまり『けいおん』とは、地に足のついた現実的なバンド活動が、日常を題材とする「きらら」漫画との相性が良いことをかきふらいが見抜いたことで生まれた作品だ。
最後に改めて「オタク文化発のロック漫画」の流れについてまとめる。
日常を題材とする「きらら」漫画という媒体によって、バンドで演奏する楽しさそのものを重要視する価値観を漫画に持ち込んだのが『けいおん』であり、まつだひかりはその延長線上で更なるディティールを追い求めた。
オタク文化からロック漫画を描く下地ができたことで、今度はリスナー側の感性で作品世界を描こうとする作家が登場し、『ぼっちざろっく』や『ロッキンユー』が生まれる。
『ぼっちざろっく』や『ロッキンユー』は、一見『BECK』的なものに回帰したかのように見えるが、アプローチが微妙に異なる。主人公に「陰キャ」を据えたり、大量の実在するバンドを引用するスタイルの通り、自分の人生をサブカルチャーで埋め尽くす「オタク文化」の文法で描かれた世界であることに注意して欲しい。
これらの作品は、「オタク文化発のロック漫画」が発展した先に行きついた、『BECK』とほとんど見分けが付かないがよく見ると薄皮が一枚被せられている、パロディ作品としての意匠を施されたロック漫画だ。
アニメ版
『ぼっち・ざ・ろっく』のアニメ版はCloverWorksが制作している。このスタジオはA-1 Picturesの高円寺スタジオを分社化したもので、古くは『アイマス』、最近では『着せ恋』を担当した実力派だ。
製作はANIPLEXと芳文社の2社体制となっている。
アニメーターの個性を生かす作画アニメの方向性
キャラクターデザインは、CloverWorks作品では『ワンダーエッグ・プライオリティ』や『着せ恋』で活躍していたアニメーターであるけろりら。
線の少ないさっぱりとしたデザインだ。作画アニメ向けの動かしやすいデザインであると同時に、デフォルメが効いているためアニメーターごとの解釈で絵柄を変えても破城しにくいようになっている。
リアルとデフォルメを行き来する原作に対して制作チームがどう挑んだかというと、日常 or ギャグのシーンごとに得意なアニメータを割り振り、その個性を最大限に生かす方針を取った。
原画担当者が交代したタイミングが一目で分かるほどに絵柄が変化していくが、作画の魅力が常に最大火力を出し続ける凄まじい作品に仕上がっている。
ロトスコープ的な質感で描かれる日常ライン
デフォルメされたキャラクターがロトスコープばりの演技を見せる
アニメ版『ぼっち・ざ・ろっく』が強く日常のニュアンスを描こうとするとき、デフォルメされたキャラクターがまるでロトスコープのようにリアルな質感で動き出すことに驚かされる。
つまり、演出論や撮影効果ではなく、純粋な線の動きを根拠にして作品世界のリアリズムを示そうとする。
この路線を最も追求したいとき、原画に吉川知希が召喚される。2話でバイトのレクチャーを受ける場面や、誰もが本作のハイライトと認めるであろう自動販売機前でぼっちちゃんと虹夏ちゃんが会話する場面を担当している。
興味深いのは、アニメ版『ぼっちざろっく』と同時期に放送され支持を受けていた『Do It YourSelf』もこの路線だったことだ。線の少ないキャラクターデザインを採用し、芝居の力で画面を持たせていく。本作は原作のないオリジナルアニメにも関わらず、DIY部という地味な題材をあえて選んでいる。
作画アニメという言葉から連想される作品は、どちらかといえばアクション要素の強いもの、例えばバトル漫画のアニメ化というイメージがあった。しかしここに来て、日常アニメにおける作品世界のリアリズムを示す手法として作画の魅力が参照される流れが来ているように感じる。
京アニが作った日常アニメのデザイン
ここで改めて京アニによる日常アニメのデザインがどういうものだったか振り返る。
京アニの日常アニメの特徴とは、キャラクターが生っぽさを伴ってそこに居るように感じられることにある。
それをどのようにして実現しているかというと、実写映画で用いられる被写界深度表現(ボケのこと)や手ブレ、レンズフレアといった、本来カメラという光学機械を介して現実世界を写した際に初めて発生する効果を、アニメの画面に適用する方法を使った。
つまり作品世界のリアリズムの根拠を、「カメラ越しの現実」に求める作風だ。後にスマートフォンやSNSが登場することで、フィルターを通して世界を見る演出は益々力を発揮するようになる。(そして食傷気味になる)
これはあくまで一例であり、作品ごとのコンセプトに合わせて、レイアウトやカラーデザインなども用いて総合的に狙った効果を演出する。
『ハルヒ』でこのアイデアが成功してから、京アニやいくつかのスタジオがその路線を追い続けた。近年ではその追及も終わり、京アニ自身も『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』で完全に離れている。
CloverWorks(A-1 Pictures)もかつては京アニ出身の高雄統子を演出・監督に迎えて『アイマス』シリーズを制作していた。しかし、『ぼっちざろっく』における日常描写は京アニの方法論から脱却したものになっているのが感慨深い。
また、ぼっちちゃんはネット上ではギターヒーローとしてチヤホヤされているのに、現実では友達がいないという設定もあり、日常描写をフィルター越しの効果に頼らない演出は『ぼっちざろっく』の作品世界に一致しているのが良い。
新しい日常芝居のアプローチ
『ぼっちざろっく』のロトスコープに見えるまでに追求された日常芝居は、CGのようなのっぺり感が生まれてしまう弱点もあるが、今のところ作画の新鮮さによる魅力の方が勝っている印象だ。
この日常芝居を見て連想したのは、シン・エヴァンゲリオンで採用された3Dモデルをアニメータがなぞる手法だ。以下に引用した宇宙空間での移動シーンや、恐らくだが第三村にてアスカがシンジに無理やり食事をさせるシーンで採用されている。
この手法の意図とは、画面の設計図としてプリヴィズが欲しいというのも勿論あるだろうが、あえて3Dモデルでリアルな人間の動きを確かめることで、実写ならではの演技の情報量をアニメに持ち込むことにある。それだけではただのCGアニメーションになってしまうところを、アニメーターがその線を自身の解釈で書き直すことで、手書きアニメの魅力も取り込む。
『ぼっちざろっく』はあくまでアニメーターによる作画のため手法は異なるが、リアルな人間の演技の情報量から得られるリアリズムへ強い興味を持っている点が共通している。
余談 デフォルメされたキャラクターを全編ロトスコープで動かす『音楽』
余談だが、デフォルメされたキャラクターを本当にロトスコープで動かすアプローチを取ったのが2019年に公開された『音楽』だ。
『音楽』はライブシーンのみでなく、日常芝居含めて全編をロトスコープで作画する。これにより、どこにでもいるような普通の高校生が楽器を取りバンドが立ち上がる瞬間を生で目撃したかのような感覚を生み出した傑作だ。音楽初心者である彼らが演奏する曲が、恐ろしく単調だが力強く、プリミティブな音楽の快楽に満ちているのが本当に良い。
同じくロトスコープを採用した作品には『悪の華』や『花とアリス殺人事件』があるが、デフォルメされたキャラクターを動かす発想は『音楽』からだ。
岩井澤:ロトスコープは、実写をそのままトレースするものだと思われがちですけど、キャラクターに置き換えるといろんな魅力が出せると思っていたので、『音楽』ではキャラクターデザインを原作に寄せてデフォルメしようと決めていました。動きにかんしても、そのまま正直に実写の動きを拾うと、すごくムラのあるグラグラした印象になります。そういう動きは極力省き、止めを多用してメリハリをつけることを意識しました。
https://realsound.jp/movie/2020/12/post-673439_2.html
前衛アニメーションが作品世界に奉仕することで生まれるパワー
ぼっちちゃんの自意識が暴走するとアニメーションの自意識も暴走する
『ぼっちざろっく』はパロディ色の強い漫画だ。これに合わせてアニメ版も原作になかった小ネタを次々に投入するなど、遊び心溢れる作りになっている。
特に振り切れ方が面白いのがぼっちちゃんの自意識が暴走するシーンの描き方で、ここではアニメーションの自意識までもが暴走してしまう。
具体的には、ピクセルアート風のビジュアルで壊れた日常を描く最低やさいコーナーが召喚されたり、
シン・エヴァ終盤のニュアンスで、Blender風の画面上でTポーズのぼっちちゃんを吹き飛ばしたり、
アニメーションよ原子に戻れという具合で令和の時代にゾートロープが復活したりする。
キャラクターの自意識とアニメーションがシンクロする演出は、やはりGAINAX作品を思い出す。
『エヴァ』ならセル画や脚本のキャプチャがぶちまけられ作品世界が解体していくし、『フリクリ』なら無力感に苛まれるナオ太の苦しみを昇華するように、pillowsの楽曲をバックにハル子が暴れカンチがメタモルフォーゼする。
前衛アニメーションが作品世界に回収される魅力
逆に言えば、日本の商業アニメーション作品では前衛的な表現が登場することは度々あっても、それが作品世界に回収されるものが近年少なかったんだなと実感する。
それは、前衛表現を採用するとき、どうしても俯瞰する意図の方が出やすいからだ。
例えば、アニメ版『ポプテピピック』ではAC部や山下諒といった地上波アニメでは見かけない才能をあえて起用するが、これはまさにベタベタなオタク文化と距離を取ろうとするスタンスから来ている。
また、作品をパロディや文脈のみで作り上げてしまう今石監督作品、トリガー作品でも同じことが言えるかもしれない。『ニンジャスレイヤー』でFlashアニメのようなチープな演出が採用されて話題になったたが、あれは悪ふざけをしているのではなく、リミテッドアニメーションの歴史を意識してアイデアによる省力化で作画コストを抑えるアニメの作り方に挑戦しているという背景がある。(先に『インフェルノコップ』を見ていた人にしか伝わっていなかった気がしますが…) 『キルラキル』が昭和アニメ風で止め絵演出が多用されるスタイルだったのも同じコンセプトのためだ。
この路線はトリガーが一人で突っ走っているわけではなく、それこそ『ぼっちざろっく』のEDアニメも手掛けたpie in the skyのようなスタジオが存在する。
難しいのは、そういった文脈を踏まえた作り込みは作品に品格を与えるものの、作品世界への没入を時に疎外することだ。あの『グレンラガン』ですら、ロボットアニメの歴史を総括しようとする意図に気付いた瞬間に、シモンの成長物語からふっと意識が抜けてしまう瞬間がある。
『ぼっちざろっく』は、前衛アニメーションを多用することがむしろ視聴者とぼっちちゃんの同化を促す効果があり、『フリクリ』が持っていた良さを再確認させられた。
翻案と演出でストレートな青春物語として描き直す
アニメ版『ぼっちざろっく』のビジュアル側の魅力は、これまでで充分に紹介できた。ここから先は地味な内容になるが、最後にCloverWorksが原作をどのような切り口で翻案したのかを整理する。
丁寧な翻案でストレートな青春物語に描き直す
恐らく原作を既に読んでいた人にとって、アニメ版『ぼっちざろっく』の視聴体験は奇妙なものになる。確かに原作と同じ物語が展開しているのに、セリフの内容が細かく改変されていたり、原作では独立していた複数のエピソードが一本に統合されているなど、かなり丁寧に翻案や再構成が行われていることが分かる。
最も分かり易いのは、ぼっちちゃんに何か試練が与えられたときに、流れでそのままステージに上がるような展開を排除し、ぼっちちゃんの意思表明が入るようになったことだ。つまり前述した青春物語としての構図を強化するように描き直されている。
そもそも原作は1話8Pの4コマ漫画であり、起承転結の流れで作劇するから、ストーリー漫画ならドラマティックに描くだろうシーンもテンポ感を重視してダイジェストで見せるしかなかった。キャラクターらに現代人の露悪的な行動をパロディさせるネタも、その枠の中でいかに火力を出すかという工夫の一つだった。そういった縛りの消えたアニメ版では、24分のエピソードで何を示したいのか、いま進行しているシーンのムードは何か、に従って脚本が書き変わっていく。
初ライブ後にぼっちちゃんが何のためにバンドをやっているか虹夏ちゃんに聞かれたとき、「売れて学校中退したい」と答えると原作では4コマのオチとして「そんな重いのは託さないで」と突っ込まれる。アニメ版では虹夏ちゃんが自身の夢を告白した時から和やかなムードの劇伴が流れ続けており、その流れで「託された!」と返してくれる。虹夏ちゃんのキャラクターが変化したというよりは、媒体の違いをうまく解釈している印象だ。
根底を支えるクラシカルでロジカルな演出
常にビジュアルを暴走させる本作の作風は、勢いに流されて話の筋が見えなくなる危うさもある筈だった。それを繋ぎとめるように、ぼっちちゃんらの成長を肯定したい場面ではクラシカルでロジカルな演出が用いられる。これにより、ストーリーものとしての見やすさが担保されている。
照明テクニック
本作で登場人物らが大事な会話をするときはいつも夜だ。自販機前の会話、帰り道の喜多ちゃんの謝罪、初ライブ後の虹夏ちゃんとの会話など。このとき、キャラクターの顔を光と陰で2分割するように照明が当たる。
ここでは、内に秘めた思いを明かすとき/隠すときに合わせて、顔にかかる光と陰の割合を変えることでキャラクターの内面をビジュアルで表現する。
これは実写映画では昔から使われてきたテクニックで、『カサブランカ』などの白黒映画で特に効果を発揮してきた。ライティングを手書きで制御できるアニメとの相性も良く、この手法を使う作品は多い。
特に6話の路上ライブのシーンは、照明演出が効果的に使われる。
心の準備が整わないうちに路上ライブが始まるとき、ぼっちちゃんらには高架の影がかかり、お客さんにだけ光が当たるなど、境界を分けることでぼっちちゃんの心理的障壁が表現される。
そして、ぼっちちゃんがお客さんが応援してくれていることに気づき不安が解消されると、突然街灯に光が灯り、境界が消える。
無事にライブが終わり、廣井さんが「この子は絶対上がってくる」とぼっちちゃんを讃えるモノローグが流れるとき、太陽でぼっちちゃんに後光が射すことで神々しさが表現される。
演奏が劇伴になる
先ほどの路上ライブのシーンもそうだが、劇中での演奏がそのまま劇伴としての効果を持つ演出が本作は何度も登場する。
2話のバイト回では、人の目を見て接客できないぼっちちゃんが、見事に客を盛り上げるバンドの演奏に感銘を受けて接客に再挑戦するシーンがある。ここではバックで流れるバンドの演奏がそのままぼっちちゃんが勇気を出したことを示す劇伴になる。
これは、主役と裏方の役割が逆転しているのが面白いし、音楽シーンを支える存在としてバンドとライブハウスの相互関係があることをうまく説明できている。
モチーフの反復・変奏
また、4話では演奏を劇伴にする演出を更にもう一捻りして、反復と変奏が行われる。
4話の冒頭は、不安定なギター演奏をバックに、傘を差したリョウさんが雨の下北沢を歩く場面から始まる。リョウさんが昔組んでいたバンドのポスターが潰れたCD屋に貼られているのを見つけた瞬間、カメラがスタジオに切り替わり、不安定なギターは練習中の喜多ちゃんの拙い演奏だったことが判明する。
以上20秒のシーンだが、今回のエピソードはリョウさんの暗い過去や、未完成なバンドメンバーの成長を描く回であることが端的に予告され、視聴者を迷わせないようにする。
4話の終わりにはこの演出がもう一度反復される。この時流れる喜多ちゃんのギターは安定しており、ぼっちちゃんは遂に歌詞を完成させる。このようにして結束バンドの成長を肯定する。
エピソードを再構成して分かり易くする
また、この4話では原作では独立していたリョウさんの過去話とアー写撮影の回をミックスしている。
これにより、虹夏ちゃんがリョウさんを支え、リョウさんがぼっちちゃんに作詞の助言をし、ぼっちちゃんが喜多ちゃんにギターを教えるというリレーが完成し、結束バンドの連帯が上手くいっていることがそれとなく示される。
この構図を1話にワンパッケージできたことが、今後の展開を分かり易くする。常に支える側だった虹夏ちゃんを初ライブでぼっちちゃんが救い、常に貰う側だった喜多ちゃんが文化祭のステージでぼっちちゃんを救うという、これから起きる展開の基盤が全て4話の中で整理されている。
4話はライブシーンのない地味なエピソードながら、アニメ版『ぼっちざろっく』全体を陰で支える重要な回になっている。
原作とアニメ版の変更点はまだまだ存在するが、すべて挙げていくとキリがないため以上とする。
ちなみにアニメ版『ぼっちざろっく』は3年以上の時間をかけて制作されていたとのこと。制作体制の豊かさがクオリティに結実した好例だと思う。
最後に余談として2期があるのかについて少し考えてみると、難易度が高いだろうなと感じている。この後に続くフェス編は新しい登場人物も多ければ連載期間も長く、1クールでは尺が足りない。また、フェス編はオーディションを勝ち上がるために奔走するという、もはやぼっちちゃんが勇気を出す/出さないで解決するような青春物語の構図から外れたフェーズに突入しているのもあり、1期で獲得したファンが望む内容になるかは怪しい。もし挑戦するならば、先に挙げたような、青春期があっという間に過ぎ去る刹那的なニュアンスや、実力不足による無力感などを強調したビターな青春物語として演出されると良いなと思う。