記録用。BankART KAIKOでの公演。
SIGMA dp2 Quattroを買った
もう2か月くらい前の話になるけど、シグマのdp2 Quattroを買った。
自分は別にカメラ好きではないことを踏まえると、このセレクトはなかなか思い切った判断だったと思う。
シグマのカメラというのはとてもピーキーで、特定の条件下では驚くほど美しい写真が撮れる一方、高感度に弱い面があり、光量が足りないとまともに撮影できなくなってしまう。ここで言う光量が足りないとは、「室内で撮る」とか「日陰で撮る」などを指していて、野外でも夕方になって太陽が隠れ始めたらその時点で使い物にならなくなるという、iPhoneのカメラに慣れているような人からすれば信じられないような世界になっている。
これを回避するにはF値、シャッタースピード、ISOの関係を理解して調整する必要がある。少し例を挙げてみる。シグマのカメラは他メーカーと違ってISOを400以上にするとノイズが乗り始めるため、自分は基本ISO100で固定している(いいのか?)。その状態で日陰に入ると光量が足りず画面が暗くなるため、シャッタースピードを落とすなどの対策が必要になる。シャッタースピードを落とす≒露光時間が長くなるためぶれ易くなるので、カメラを固定できる場所を探す、といった具合になる。自分も最初はこの原則が分からなかったので、安倍吉俊氏のブログを読んだり、以下のような図をみて勉強した。
最近「カメラの使い方を教えてほしい」という声が多いので、以前作った「カメラの基礎講座」も需要がありそうだなと。私がカメラを始めた頃に「もっとシンプルでまとまった資料があれば良いな」と感じていたものを形にしてます。カメラ始めたての人に知ってほしい。 pic.twitter.com/8Ay2cDHPZT
— つぼた|坪田将知 (@spot_tsubota) March 30, 2018
失敗例として以下の写真を挙げてみる。
これは一見モノクロ写真に見えるけれども、実は通常モードで撮影したもの。背景に薄っすら見える通りここは竹林の中で、光量が足りないせいで真っ暗になっている。dpでこういった場所で撮影するなら、三脚を用意して長時間露光などしないとダメらしい。
逆に、条件がハマった際のポテンシャルは素晴らしくて、植物であれば葉脈まで見えるほどの高精細な写真が撮れる。
遠景も良くて、下の写真は建物に当たった日の光と、陰になっている場所のコントラストがうまく出ている。
とまあ、ここしばらくはそんな感じで大量の写真を撮って過ごしていた。
しっかりとしたカメラを使うことで初めて気付くことはあって、最近はボケのことについてよく考える。ボケを使うとなんとなく良い写真が撮れたような気になってしまうが、これは要するに「撮りたかったもの」だけが写真に映り込むため完成度が高く見えるからなのだと思う。しかし、本来は構図が良ければ「撮りたかったもの」は伝わるのであって、安易なボケ使用は思考停止なのではないかと気づき反省した。それにノイズ扱いして隠した部分に面白いものが映り込んでいた可能性だってあるわけで、一枚の写真を楽しむ寿命を長くするのならば、ボケは強い意図がある場合を除いて封印した方が良い気がしている。
例えば以下は抽象的な画になっていてエモいけれど、実は撮りたいものが未定なまま撮影した曖昧な写真。悪くはないと思うけれど、これに頼りすぎるとスキルは上がらなそう。
とは言え、「なんだこれ?」と感じる捉えようのない写真に面白さが眠っているのも確かだとは思うので、ルーレットを引く感覚で大量にシャッターを切るのは続けていこうと思う。
20211106 郷本さんの漫画
#夜と海 https://t.co/ch4ilgeK8e pic.twitter.com/EKQQmBKwcr
— 郷本 (@g0umot0) April 14, 2021
少し前に、郷本さんの『夜と海』と『ねこだまり』がほぼ同時期に完結した。コロナ禍真っ只中にすべての連載を止めたことに悪い想像をしたりもしたのだけど、その後「楽園」での新連載が告知されて杞憂だったことが分かった。新作を楽しみにしつつ、良い機会なので郷本さんの漫画の話を書いてみる。
先に名前を出した2作は、女子高生の交流を描く『夜と海』、独り暮らしのOLと飼い猫の生活を描く『ねこだまり』と、題材は全く異なる。でもよくよく読んでみると一貫したテーマがあって、どうも郷本さんは「異種族交流」を描き続けていることが分かる。
『ねこだまり』については、人と猫の関係と直接的だから分かりやすい。でも『夜と海』は二人の女子高生の交流の話だから繋がらないように見えるかもしれない。
『夜と海』は世間的には百合というジャンル分けをされているものの、そのつもりで読んでいると器からはみ出ている部分が徐々に目に入る。本作の主役二人は、自身の興味に正直に行動してしまう人物で、学校生活や同級生との交流も、あまり視界に入っていない。 学校で唯一人の水泳部員である彩は、放課後のプールの時間を目的に日々を過ごしており、そこに彩の泳ぐ姿に惹かれた月子が「見学」するために参加するようになる。二人で過ごす時間が増えたことで周囲からは親友か恋人のように見えているが、実際はお互いの連絡先さえ知らず、夏休みにわざわざ会ったりもしないという百合らしからぬドライな関係である。
この関係性が一体何なのかは、作中繰り返し登場するプールで過ごす絵に現れている。水の生き物のように身体を水中に沈めた彩と、プールサイドに足を垂らすより先には絶対に進まない月子が描かれ続けていて、水平線の上側と下側で住む世界が違うことが強調されている。本作は、同じ人間同士でも価値観が異なればコミュニケーションなんてまともに成立せず、それは異種族交流みたいなものになるんだという前提で進行していく。
この温度感が物足りないという人もいれば、逆に息ができるという人もいると思う。郷本さんの漫画は絵的には華やかなのでつるつる読んでいけるのだけど、根底はヤマシタトモコの『異国日記』のようなシビアな作品らと考え方を共有している部分がある。
ちなみに『ねこだまり』は郷本さんのこのスタンスのおかげで自分にとって最良の猫漫画になっている。本作は奇行を続ける飼い猫らに主人公が振り回され続けるというもので、主人公は奇行の理由をひたすら想像してみるけど「結局何も分かりませんでした」というオチで毎回終わる。自分も猫は何を考えているか分からないところに魅力があると思っているので、本作のコミュニケーションが取れなくても一方的に猫を愛でていく感覚にはとても共感してしまった。
まあ、あまり長々と書くのもあれなのでこんな感じで。
次作のタイトルは『破滅の恋人』とのことですが、自分の適当な解釈が外れてオーソドックスな百合になるのか、やっぱりひとひねりあるのかは分からない。単行本出るまで待ちます。
🎹本日10/29発売の「楽園」第37号より『破滅の恋人』連載開始です。のびのび描かせて頂いてます。よろしくおねがいします。🌿 pic.twitter.com/AOKxRXvxKs
— 郷本 (@g0umot0) October 29, 2021
20210725『北北西に曇と往け』を読んだ
人に勧められて読んだ『北北西に曇と往け』が面白かったので感想を書く。端的に結論だけ先に言うと、自然と人間、それぞれへの興味のバランスが取れた良い漫画だなと感じた。
本作は、アイルランドで探偵業を営んで生活する日本人男性の話。アイルランドは人間どころか植物すら生きるのが難しい極端な自然環境を持つ土地である。そこでの生活に馴染めてしまう主人公は車などの無機物の声を聞き取る能力を持っているなど、アニミズム的な思想が作品世界に反映されている。
1巻の時点では、砂漠のような情報量のない世界を端正なキャラクターが歩く絵を見て、アイルランドという舞台はあくまで人間を描くための土台で、自然にはそこまで興味ないのかな、と予想してしまった。でも話が進むにつれてそのバランスは整い、人間と自然を対等に描こうとしていることが分かってくる。アイルランドは土でなく溶岩でできた生き物を拒絶する土地なんだというエピソードも登場し、等しく全ての生命の存在感が際立つ場所として選ばれたことが分かってくる。意外とこの辺りのバランスが取れた漫画ってないので、居心地の良さを感じられた。
じゃあ逆にバランスが取れてない書き方ってどんなの?と言えば、選択したテーマの割に実は自然への興味がそこまで無いだろうという漫画の例として、あfろ先生の『ゆるキャン』が挙げられる。あfろ先生は大好きな作家で以前もこのブログで取り上げたことがあるけど、あfろ先生は現実世界を生きるのは死ぬほど退屈であるという前提を元に、どれだけ面白おかしく日々を過ごせるかを描こうとする作家だと思う。初期作はこれが分かりやすく反映されているので、マインクラフト張りの砂漠のような土地を舞台に、登場人物らがシュールなギャグを永遠に続けるみたいな不思議な話になったりする。『ゆるキャン』では自然溢れる田舎でアウトドアを楽しむ姿が描かれるけど、あれは現実がひたすら退屈であるというあfろ先生の精神世界に一致する題材として田舎の風景が選ばれているだけで、さほど自然そのものには興味がないんだと思う。このため、あfろ先生の描く自然の風景は、時にカメラのレンズを通したかのように遠慮なく歪んでいく。荘厳な自然の風景を、現実感が乖離する風景として捉えて書き直しており、異世界に迷い込んだかのような感覚を読者に与えようとする意図がある。
これは現代人らしい感覚で、多くの人が田舎へ旅行をするとき、その理由がその土地の歴史が知りたいんだなんてことはなく、生活のごたごたを忘れられる非日常的な体験を求めて遠出するのである。あfろ先生の絵は、こういった旅情への欲望がストレートに乗せられたものとして解釈することができそう。一見人を選ぶようで、実は多くの人の共感を得られる描写になっているのが人気の背景にあると思う。
逆に自然の方に興味が寄り過ぎている漫画の例は、適切かは微妙だけど名作『神々の山嶺』が挙げられるかもしれない。こちらはシンプルな話で、作画を担当した谷口ジローは自然も人間も興味を持って書ける人だけど、話自体は山に魅入られた登場人物たちが進んで過酷な状況に入って命を失っていく危険な話だから。特に主人公の羽生は最初から最後まで山が第一優先の男で、恋人や家族を顧みることが出来ないなど、極端な自然へのロマンで作品世界が駆動していく。このため本作で人が山で死ぬときは、ドラマティックな演出などは入れず、記録映像のようにその場で起きたことが誇張無しで淡々と描かれる。
ここで『北北西に曇と往け』の話に戻ると、無機物の声が聞こえるという一見危なげな主人公も、探偵業を営んでいるという設定のおかげで人間への興味を失わない人物なんだと最初から線引きがされていて安心感がある。それこそ、アイルランドに来て遊んでばかりいる弟に共同体の事を考えて働けと一喝してみせるくらいには地に足のついた人物として描かれている。そこに『神々の山嶺』 の羽生を見ている時の不安さみたいなものは無い。
だいぶ脱線したけど、本作は、『乱と灰色の世界』のように瑞々しく人間を描く能力を持っている入江亜季さんが、「人間も植物も生きづらいアイルランドを舞台に、全ての生命を等価に描く」というテーマに挑んだことで、バランスの良い作品世界に仕上がっているのが良いと感じた。
感想は以上。本作は現状出ている5巻を読み終わったので『乱と灰色の世界』にも手を出し始めたけど、こちらは完全なファンタジー調になっていて、作風の転換が凄すぎるね…。
20210710 イサムノグチ、八木良太
この日は耐え難い暑さで(30度もあったらしい)、サウナの中を歩いているような危険な日だった。しかしイサム・ノグチ展を予約してしまっていたので上野へ。
久しぶりに上野駅を降りたら公園側の改札口から道路が消えていて、まるで別の場所になっていた。
イサム・ノグチと言えば香川の庭園美術館。いつか美術館を目指しつつ、うどんを食べ歩く旅行をやろうと計画していたのだけどコロナで凍結。実行する前に個展が来てしまった。
展示構成はシンプルで、3つのフロアごとに、ブロンズ、金属、岩と素材で作品を分けている。岩のフロアは庭のイメージになっていて、椅子に座りながらゆったりと鑑賞できるようになっていて満足度高かった。(ここだけ撮影不可)
あと珍しい試みとして、美術館の解説音声システムを使った山口一郎によるサウンドツアーというのがあったので試してみた。(イサム・ノグチ好きの縁らしい)
これは要はDJみたいなもので、3つの展示フロアごとに組まれたプレイリストを聞くことができる。イサム・ノグチの音楽嗜好や活躍した時代を加味した丁寧なセレクトみたいだったけど、堂々と音楽を聴きながら美術館を歩ける非日常さそのものが面白すぎて曲を楽しむどころではなかった!
音声解説って普段使わないんだけど、人混みの中でプライベートな状態をつくれるので鑑賞に集中できるのが良いね。その効果もあってかゆったり見れた気がする。たぶん1時間以上居た。
ネタバレだけど、プレイリストの最後に流れるのはサカナクションの「茶柱」のインストバージョンで、恐らくここでしか聞けないレアな音源ながら、締めは自分の曲なのかよ!と心の中で突っ込んだ。
この日はもう1軒、無人島プロダクションの八木良太の個展も見に行った。
八木良太は大好きな作家で、時間について考察させる作品が特徴。今回も「浦島太郎の宇宙旅行」の名の通り、まさしくそういったテーマの展示だった。
どれもキレキレながら、一番気に入ったのはテープレコーダーを使った映像作品。
広州の風景をバックにテープレコーダーのスイッチを押すと、それに合わせて映像が早くなったり遅くなったりする。背景のおばあちゃんの演舞も激しくなったり鈍くなったりする。何もなくとも日本との時間の流れ方が違うように見える異国の風景が、更に変質して印象が変わる。時おり通り過ぎる人が不審そうな顔でこちらを覗き込んでくるのも良い。(そもそも映像と時間というテーマは相性が良いに決まっているので、もっと変わったのを紹介するべきだろうけど許して欲しい)
会場では過去作をまとめたDVDが売られていたので購入して帰った。
20210612 青森県のせむし男
今年2度目の万有引力の公演日がやってきたので、ザ・スズナリへ。
今回上演されたのは、万有引力の前身である天井桟敷の旗揚げ公演だった「青森県のせむし男」の新演出版。オリジナル版は寺山修司が主演に美輪(丸山)明宏を起用した事で有名。
万有引力のコロナ以降の企画は、全公演で演目が切り替わる「√ -何か面白いことはないかと劇場に出かける-」など、「この時代に演劇で何すんの?」という実験的なものが多くて、原点に立ち戻る今回の公演もその一環にあるのかなと思った。
会場に入ると壁には「大山デブコの犯罪」や「犬神」など天井桟敷の過去公演のポスターが貼られていて、新作もガシガシやっていく万有引力らしくないレトロスペクティブな雰囲気。舞台は中央に円形の巨大な足場が一つ、その更に手前に独立した足場が2つ用意されていて、そこを演者が行ったり来たり出来るようになっている。仮設された2階には三味線を持った奏者が待機していて、「身毒丸」を思わせる音楽劇スタイルの編成。
観劇後の最初の感想は、元が天井桟敷の初演だけあって、話がひたすらシンプルで分かりやすい!だった。万有引力の作品は「マジでなんも分からん…」で終わってしまうような捉えどころのないものも少なくないため、逆に衝撃を受けた。話の大筋も寺山演劇ではお馴染みの母と息子の物語で、まさに入門編といった感じ。
ただし、流石に万有引力のやることなので簡単に消化できるようなものにはなっていない。例えばその分かりやすい物語は演者のセリフで粛々と説明的に進行されてしまい、そのテキストで語られる世界を置いてきぼりにするかのように発達した舞台演出が先行していくので、観客はテキストを理解するのでなく演出に身を晒す様な感覚で見てないと置いてきぼりにされる。そこは情報量が多くてついて行くのがやっとという、いつもの楽しい万有引力の演劇だった。
また、ストーリーについて考えたことを少し書く。(万有引力の演劇は演出先行型なのでテキストベースでストーリーについて考えることはあまりしないのだけど、今回は気になる点があったのでメモしておく)
青森県のせむし男は、帳簿をもった役人が失踪して人々の血縁関係が分からなくなるというエピソードからスタートする。これはアングラ演劇でよく取り上げられる、戦後の復興により高度にシステム化されていく日本への反発的なものに見える。またせむし男という題材も、ノートルダムのせむし男を下敷きにしつつ、クリーンな国からはじき出されるであろう人々を取り上げるという寺山演劇の見世物小屋的な要素を含んだものになっている。
しかし、EDにおいてこのせむし男は最初から存在せず、青森という土地のお化けのようなものなんだという、幻の押井守版ルパンみたいな展開が待っている。これが自分の中の寺山演劇のイメージと合わなくて驚いた。
寺山演劇は観客を驚かせるためだけの展開を入れようなんて変なサービス精神は無い。なのであくまで自分の考えだけど、これは見世物小屋の復権を掲げる天井桟敷ながら、実のところせむし男のような人間が生きられる場所はとっくに失われており、我々はその後の世界に生きているのだということを示したかったのかなと思った。これはなんというか村上春樹あたりがやりそうなモダンな手法で、寺山修司もこういうことやってたんだ…という驚きがあった。
劇の最後は、恐らくオリジナル版を再現した演出として、「次回公演は大山デブコの犯罪です」という挨拶を持って終了した。「勿論嘘でございます」とも付け加えていた。いや、本当にやってくれて全然いいのだけど。
20210605 レヴュースタァライト劇場版を観た
正確には「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」らしいです。とても面白かった。
あんまりネット上でスターライトの話しないけど実は好きで、劇場版はひそやかに楽しみにしていた。どのくらい好きかというと、総集編劇場版は見ないけどTVシリーズは一式見たくらいの温度感。
実はTV版は一話で絶望して一度視聴を断念してる。それでお終いと思っていたけど、その後最終回直前の一挙放送で面白さに気付くという変なハマり方をした。
この作品は、歌劇少女という設定なり、監督が幾原監督作品の演出を担当していた古川知宏さんだったりとか、明らかにウテナを意識している。それを踏まえて見る一話はかなり厳しくて、メディアミックスを見越したキャラクター中心的な世界観を見せつけられた末にどこかで見たような変身バンクが披露されるという、毒を抜かれたウテナそのものだった。
それでうんざりして距離を置いたわけだけど、説明が一通り終わり、ゆったりとした日常芝居ができるようになる2話からは風通しが良くなって、ユーモアのある演出が商業的な臭いを追い出すようになってくる。それこそ2話の冒頭で主人公が物置に監禁されてしまうシーンでは、物置の扉が閉まって画面が真っ暗になったまま音も出さず何秒も放置してみせるなど、かつて幾原監督がセーラームーンでやった放送事故すれすれの演出を思わせる場面から始まったりする。(エヴァの無言エレベーターの方が分かりやすい?) (追記:後で見直したらそんな演出ありませんでした。怖っ。)
スターライトはこんな感じで、古川監督の偏執的な演出と、ブシロードの臭いがせめぎ合う変なアニメに仕上がっている。それもウテナがベースの筈なのに、キャラクタービジネスとしての要請から予定調和的に開催される決闘シーンより、奇妙なユーモアで演出される日常シーンの方が面白く感じられたりする。
劇場版の話から逸れ続けたけど、感想はTV版と全く同じになる。劇場版だろうがキャラクタービジネスなので、決闘シーンは9人のキャラクター達に均等に出番が割り振られていて、一応のメインプロットであるはずの愛城華恋と神楽ひかりの物語は一向に進まない。アヴェンジャーズでも有り得ない程のスローテンポ。というかTV版を再演しているだけじゃないか…。
その代わり、横に長いシネマスコープを使ったレイアウトの遊びが無茶苦茶に繰り返されるのがこの映画の面白いところ。
例えば、ひかりと友達になる前の幼い華恋が公園のベンチに座るシーンでは、謎の柱がスクリーンのど真ん中に立っていて、その左右に置かれた2つのベンチのうち左側にちょこんと華恋が座って、スクリーンの右側は空っぽになっている。その後華恋とひかりの友情が発展していく。
電車に乗れば、電車のフレームや線路の周りに立つ柱が、歌劇少女達や駅の看板を高速で遮って、回転速度が安定しないゾートロープを覗いたときみたいな映像になる。
シネマスコープとは関係ないけど、アルチンボルドの絵画を本物の野菜で再現する実写映像なんかも登場したりして、古川監督がはしゃいでいる姿がスクリーン越しに見える楽しい映画だった。(燃えるキリンとか幾原モチーフの引用もやたらあるけど意味は無くて楽しいからやってるだけだと思う)
来場特典は色紙(私の推しのばななさんだった!)とガチャ100連。ガシャは回す予定が無いので、ここまで読んでくれたどなたかがご自由に使ってください。
20210414 押井守週間
『ぶらどらぶ』を全話見たせいで押井守熱が高まってしまい、4月は未見だった作品をひらすら見ていた。
見た分をリストアップするとこんな感じ。
- 天使のたまご
- アヴァロン
- 立喰師列伝
- 真・女立喰師列伝
- ASSAULT GIRLS
- 機動警察パトレイバー the Movie
- 機動警察パトレイバー 2 the Movie
- THE NEXT GENERATION パトレイバー(シリーズ+劇場版)
- 御先祖様万々歳!
パト2見てなかったのかよ!と突っ込まれそう。
まあそれは良いとして、『立喰師列伝』は本気で衝撃を受けた。押井作品の中で一番好きな映画かもしれない。
これ、攻殻あたりが好きな人にとっては押井監督が意味不明なことをやっているようにしか見えないと思う。でも幼少期にカートゥーンネットワークで『アンジェラ・アナコンダ』を見て育った自分にはすごく馴染むアニメで、順当に実写取り込み表現の正統進化をやってるように見える。押井監督じゃなくてもいいけど誰かがやらないといけなかった題材だよ!
内容も良い意味でしょうもなくて、ロッテリアの店長の名前が神山(健治)だったりとか、躊躇なく身内ネタをこすってくる。可愛い後輩である樋口真嗣はまだしも、ずっとお世話になってる川井憲次に牛鼻輪を付けるな。
題材の「立喰師」もただの食い逃げ犯のことで、スカスカの内容を外連味たっぷりの演出と大量の引用で煙にまき続けることで間を持たせている。今なら分かるけど『ぶらどらぶ』はこっちの路線だったのね。続編の『真・女立喰師列伝』はアニメでなく完全な実写になってるけどこちらも面白かった。
脱線するけど、カートゥーンネットワークはこういうシュール路線の作品を定期的に出してるので偉い。今なら『おかしなガムボール』がそれにあたるはず。
それと『御先祖様万々歳!』も良かった。演劇表現を取り込んでるというのは聞いてたけど、近親相姦とか家族というシステムへの不信感とか、扱ってるテーマがそのまんま天井桟敷(寺山修司)。タワマンが舞台だけど話は身毒丸じゃんと思いながら見てた。
押井守は映画語りするとすぐにゴダールやトリュフォーの話が出てきたりとか、如何にもその世代の映画オタクというイメージが強かったけど、むしろ同業者がカバーできてない分野から引用ができる人だったんだなと気づいた。
見た分の感想としてはこんなところ。赤い眼鏡とかケルベロスとか残ってるので、押井週間はもう少し続く。
余談だけど、『天使のたまご』のお腹に卵を抱えて歩く少女や生き物みたいなデザインの戦車って、デスストの元ネタなんだろうか…。
20210410 富津岬
20210407 memo/インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア
久しぶりに『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』を見たので思ったことをメモ。
確かこの映画を初めて見たのは小学生の頃で、正月の年越しを終えた後、点けっぱなしにしてたテレビでたまたまこの映画が流れていたのを見たというめちゃくちゃな出会い方だった。改めて見ると、トム・クルーズとブラッド・ピットにヴァンパイアをやらせるなんてどんな発想だよと驚いてしまうけど(しかも信じられないことにハマっている)、もう一つ、吸血鬼映画を撮るという事にどれくらい自覚的な作品だったのかが気になった。
『ノスフェラトゥ』から始まった吸血鬼映画はもはや古典中の古典と言っても叱られないジャンルで、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』が公開された1994年の時点でも懐古的な企画だったんじゃないかと思う。それを踏まえると、わざわざ現代まで生き残ったヴァンパイアをインタビューするという構成にしているのも、いま吸血鬼映画を撮ることに対する自己批判ではないかと感じてしまう。(最近で言えばトリガーの『リトルウィッチアカデミア』が似たことをやっていて、作中世界でも魔法少女が時代遅れな存在であることがはっきり示されている) しかも最後にはダメ押しで、話を聞くうちに吸血鬼の世界にすっかり魅了されたインタビュアーが仲間になりたがるも、拒否された挙句殺されてしまうというオチまで付いている。でも、主人公のヴァンパイア二人に魅了されて、今更このジャンルに入門してしまう人も当時結構いたんじゃないかとも思う。最近でも『トワイライト』や『ジュラシックワールド 炎の王国』があったし、姿を変えながら生き残っているようにも見える。
まあそんなことを考えてしまうくらい、今見ても色気のある良い映画だった。
そういえば最近『ぶらどらぶ』の公開分を全部見たんだけど、1クールの最終話で『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』が引用されていた。押井監督も引用には拘りがある人に見えるけど(時に滑るけど)、昭和ノリを押し付けまくるこのアニメと吸血鬼に何か繋がりがあるのか、最後にはジャンル愛か自己言及的な何かが見られるのか、そもそも『ぶらどらぶ』がどれくらい本気の企画なのか、少し考えてしまった。