ソウルシリーズ振り返り 宮崎GMとのセッションログ

ここの所、PCでダークソウルシリーズをやり直していた。特に『ダークソウル1』は学生時代にかなりの時間をかけてやり込んだゲームなのもあり、地元に帰ってきたような感慨深さがあったのだけれど、同時にプレイヤーの数が減ったことで一部の体験がオミットされている事が気にかかった。一応ソウルシリーズはシングルプレイのゲームとして成立するように作られており、それに加えてマルチプレイも出来るという体で設計されている。しかし、マルチプレイ要素への距離感はタイトルごとの違いがある。最も離れたのが『SEKIRO』であれば、最も近づいたのが『ダークソウル1』だったと自分は感じている。なまじシングルプレイが出来てしまう分、プレイヤーが意識して口伝しないとこの辺りはどんどん見えなくなってしまうのかもしれない。そこでという訳ではないけれど、次回作である『ELDEN RING』まで暫くかかりそうであるし、このタイミングで自分なりのソウルシリーズの史観をまとめてみようと思う。

『デモンズソウル』モチベーション管理とロールプレイ

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シリーズ1作目である『デモンズソウル』の核は2つある。1つは徹底的なプレイヤーのモチベーション管理であり、もう1つはロールプレイ要素だ。

『デモンズソウル』は高難易度で達成感のあるクラシックなゲームプレイを目指した作品だったが、このコンセプト自体は当時珍しいものではなかった。家庭用ゲーム機がDL専用ゲームを扱うようになり、小規模チームにより開発された『ロックマン9』や『Super Meat Boy』が登場するなど、古き良き時代へ戻ろうとする流れがあった。そんな中で本作が新鮮に受け止められたのは、あくまで最新の技術を使いつつ、プレイヤーがゲームをリトライするモチベーションを維持できるようなゲームデザインを施すことで、クラシックなゲームプレイを現代風に再現させたことにあったと思う。

例えば、『キングスフィールド』などとは違い、手触りのレベルではあくまで三人称のアクションとすることで、多くのプレイヤーが受け入れやすい土壌を持たせていた。その先にあるリトライ前提の難易度についても、プレイヤーの死をメタ的に取り込んだゲームデザインによって進行感が途切れないような工夫がなされていた。死亡するとその場に経験値を落としてしまう血痕システムなどがそうだ。また、他のプレイヤーとヒントを共有する非同期オンラインシステムは、孤独感を軽減しつつ、厳しい世界を攻略するためのインフラを共同で育てていくという、新しいゲームの楽しみ方を提供していた。このようにプレイヤーのモチベーションを継続させるための様々な仕組みが動いている。

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また、本作では他のプレイヤーとマッチングして協力・敵対プレイを行うこともできるが、その内容はとても奇妙だ。

協力者の目標はホストプレイヤーと共にエリアの最奥に待ち受けるボスを倒すことだが、ホストは一直線にボス戦に向かうこともあれば、じっくりとエリアの探索を始める場合もある。目的別マッチングなどの機能はないため、ゲームがどのように進行するかは完全にホストの意思に任されている。それこそ初見のプレイヤーの探索に付き合うことになれば、1時間弱のセッションになってしまうこともある。

それに対して、敵対者の目標はホストプレイヤーがボス戦に突入する前に倒してしまうことだ。しかし、相手プレイヤーが協力者を呼び出している場合は、1人で複数人を相手取ることになってしまう。この不利な状況で勝つためには、味方である周囲の敵モンスターを利用しながら戦うのがセオリーとなる。敵対者とは、敵モンスターの1人をプレイヤーが担当するかのような位置づけにあるのだ。

このように、本作のマルチプレイは徹底してシングルプレイの延長となるよう構築されたことで、他のゲームでは見たことのないようなものになっていた。シングルプレイとマルチプレイを融合させる試みは後に『ウォッチドッグス』や『メタルギアソリッドV』などが追従するが、限られたエリアの中で対戦させられるなどマルチプレイ用のルールが展開されるものであり、本作ほどの自由度は無かった。プレイヤーに大きく手綱を渡したこのマルチプレイは当時とても新鮮であり、それこそ目標を達成することで得られる報酬のことを忘れて、協力や対戦を何度も繰り返したのを覚えている。

この奇妙なマルチプレイの正体はなんだろうか。一つの仮定として、協力者も敵対者も等しくホストプレイヤーのゲームを彩るためのゲストであり、つまりロールプレイをさせられているのだと考えられないだろうか。与えられた役割の中で自由に行動するプレイヤーらによって様々な展開が起きるこのゲームプレイは、まるで一つの卓を囲んでゲームマスターとプレイヤーらが対話しながらシナリオを作り上げていくテーブルトークRPG(以下、TRPG)の楽しさを、ビデオゲームの中で再現しているのではないだろうか。

『デモンズソウル』の感想に他のプレイヤーとの冒険中に起きた出来事を回想するようなものが非常に多かったり、また動画投稿サイトに自身のゲームプレイを紹介する動画が活発に投稿されるといった反応があったのも、このゲームがTRPG的な楽しさを持っている事と無関係ではないと考える。

TPRGとソウルシリーズの関係

いきなりTRPGを引き合いに出したので、概要を簡単に説明する。TRPGとはアナログゲームの一つで、ゲームマスターと役割を与えられたプレイヤーらが対話しながら、ルールブックに従ってシナリオを進めていくゲームのことだ。我々が普段ビデオゲームで遊んでいるRPGはコンピュータRPG(以下、CRPG)と呼ばれており、これはTRPGにおけるゲームマスターの役割をコンピュータに肩代わりさせる形で生まれたものだという。

ソウルシリーズのディレクターを務める宮崎英高氏のインタビューによると、幼少期は家庭内でビデオゲームが禁止されており、代わりにTRPGやボードゲームといったアナログゲームを遊んでいたらしい。また、2017年には『ダークソウル』を基にしたTRPG本がグループSNEから発売されることになるが、これは宮崎D自身が多くのゲームブックを出版してきたグループSNEの長年のファンであり、オフィスを訪問してスタッフと交流するようになったことから始まった企画であるという。

実際にダークソウルTRPGをプレイする様子

前述した要素以外にも、TRPGを意識したと思われる要素をソウルシリーズは多く含んでいる。例えば、ゲーム内の各種アイテムに付属する饒舌なテキストは、一見多くのゲームで採用されている環境ストーリーテリング的なものに見える。しかし、環境ストーリーテリングがそこで過去に起きたことを描く手法であるのに対して、ソウルシリーズのテキストで描かれるのはどちらかといえば世界の広がりを感じさせるための設定のようなものであることが多い。それを踏まえると、これらはTRPGの分厚いルールブックの多くを占めることもあるという世界観の設定資料を読み込む体験を再現したもののように見えてくる。

また、他のCRPGでも見られる、レベルアップ時に任意のステータスを成長させ自分なりのキャラクターを構築していくシステムは、TRPGのキャラクター作成から引き継がれたものだ。これがソウルシリーズではネットワーク機能によるマルチプレイにより、自分とは異なる方向性で育成された他のプレイヤーのキャラクターと共に冒険できるという仕組みも用意されている。これは、CRPGがプレイヤーとコンピュータが1対1で対話する形式を前提とする中で切り捨てた要素を拾いなおし、ビデオゲーム上で再現できるTRPGのゲームプレイを再定義しているようにも見え、面白い。

本筋から逸れるが、近年は人狼とビデオゲームを融合した『Project Winter』や『Among Us』のような作品も登場しており、アナログゲームとビデオゲームの関係が今度どう変化していくかは興味深いものがある。

『ダークソウル』本格的な人間中心主義へ

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『ダークソウル』の発売日が近づいていた頃、『デモンズソウル』のファンの間で1週目をオフラインモードでプレイするべきか否かという話題があったのを覚えている。それは、前作において安易に協力者を呼び出してしまったことで、攻略方法のネタバレを見てしまったり、苦戦すべきボス戦をあっさりクリアしてしまうなど、本来の楽しさを味わい損ねるような経験を多くのプレイヤーがしていたからだ。これはコアなファンによる過剰なリアクションという訳でもなく、マルチプレイ要素がプレイヤーへ一意の体験を届けることを阻害してしまうという問題は、今後のソウルシリーズにも続く大きな課題だった。

また、『デモンズソウル』は非同期オンラインの仕様に顕著だが、ユーザ間でのコミュニケーションを要求しない緩く繋がる遊び方を提案しようというコンセプトがあった。しかし、一部のプレイヤーは自身のゲームを進めることを放棄してひたすら他のプレイヤーの世界で協力・敵対プレイに勤しむようになるなど、マルチプレイ要素は制作側の想定を超えて過剰に楽しまれた部分があったと思う。これに対して『ダークソウル』がどのような反応を返したかと言うと、こういった積極的なマルチプレイを肯定する側にゲームデザインを振り直した。

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まずゲームを起動してすぐに気付く前作との違いは、UIの左上に追加されたカウンターだ。このカウンターは自身のゲームでボスを撃破することで上昇するほか、マルチプレイにより他のプレイヤーを手助けしたり、逆に敵対者として他のプレイヤーを倒することでも上昇する。前作ではマルチプレイのみを遊び続けることにシステム上のメリットは無かったが、カウンターが設けられたことでゲーム側がプレイヤーにモチベーションを与えてくれる。このカウンターは「人間性」という意味深な名前が付けられている。

『ダークソウル』はこの人間性を代表に、ゲームデザインや世界観をマルチプレイを前提とした形に再構築した。特に大きな追加要素が誓約システムだ。これは、世界に存在する様々な思想を持った派閥とプレイヤーが契約を結び、それによって特殊な能力を授かることができるというものだ。例えば、他のプレイヤーを殺害した経験のあるプレイヤーのみを対象にPKを仕掛けられる”暗月の剣”や、同じエリアを攻略しているプレイヤーを呪いゲーム難易度を上昇させる”墓王の眷属”などがある。このように様々な役割を持ったプレイヤーがネットワークで繋がることで、シングルプレイとは別の、人対人の関係によるドラマが生まれる仕組みになっている。

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また、前述したようなゲームをプレイヤーに解放する態度を踏まえて『ダークソウル』の世界観を見てみると興味深いものがある。『ダークソウル』の世界には明確に人間と異なる種族として神々が存在しており、プレイヤーはグウィンと呼ばれる神の意思を継いで、世界を延命させるための火継ぎの儀式を行うというのが本作のプロットになる。しかし、設定を読み解いていくと、どうもこのグウィン王は人間の存在を恐れて管理したがっていたことが分かる。火継ぎが必要であるのは神々の方であり、むしろ火が失われることによって、闇から生まれた種族である人の時代が来るのだという。これはまさに、プレイヤーに一意の体験を与えようとする制作側と、マルチプレイから生まれる二次的なドラマに没頭するプレイヤーという、本作におけるある種の対立構図を神話にしたものではないだろうか。『デモンズソウル』の頃からゲームプレイと世界観を一致させることでプレイヤーに没入感を与える試みはあったが、『ダークソウル』ではそれが更に一段高いレイヤーで行われている。

プレイヤーにより自由度を与えながらも、世界観との齟齬を発生させないよう立ち回って見せる宮崎Dのゲームマスターとしての能力は、本作において一つの到達点を迎えたと言える。

ソウルシリーズの拡大とフロム・ソフトウェア

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2014年は『ダークソウル2』の発売と共に大きな出来事があった。フロム・ソフトウェアが角川の子会社となり、また社長を務めていた神直利氏が相談役に就任し、宮崎英高氏がその後を継いだ。これは宮崎氏が経営層へシフトするという意味ではなく、フロム・ソフトウェアは神氏の時代から社長自身がゲーム開発にも参加する経営と開発を切り離さない社風がある。むしろこの体制変更は宮崎氏がよりディレクターとしてのポテンシャルを発揮できる環境を作るためのものであり、またソウルシリーズへの期待の大きさを示している。

『ダークソウル2』はディレクターを渋谷知広氏に交代したというアナウンスがあったが、裏では宮崎Dは『ブラッドボーン』の準備に取り掛かっていた。この時からソウルシリーズは複数ラインで開発されるようになり、1年に1本新作が発売されるという過剰な時期を迎える。2016年に発売される『ダークソウル3』までが神直利氏体制で立てられた企画であり、多大な影響力を持ったソウルシリーズにより基盤を固め、会社を次のステージへ進める狙いがあったと推測される。2015年には開発力の向上を目的に「フロム・ソフトウェア 福岡スタジオ」が開設された。

『ダークソウル2』拡張されるソウルシリーズ

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『ダークソウル2』は一見では前作を基盤に拡張された正統な続編だ。初期のキービジュアルに松明を持った騎士が歩いているというものがあったが、これは実際に新規システムとして組み込まれており、フィールド内にある種火を松明で拾い、真っ暗なフィールドを進み、また新しい燭台に灯していくというゲームプレイがある。これは本作で新たにディレクターを務めた渋谷知広氏(後に谷村唯氏に交代)による『ダークソウル』の再解釈であろう。

ただ本作の位置づけが難しいのは、ソウルシリーズはこれまでコンセプトに合わせて作品世界を作り直すやり方を取っており、続編を作る事自体が亜流という事だ。そもそも「ダークソウル」とはゲーム内の設定を読み解くと人間性と近しいものである事が分かり、つまり前述したようにマルチプレイ路線に切り替えたことを象徴するタイトルだった。前作は重厚な世界観を作り込みバックボーンに多くの神々を登場させながらも、「ダークソウル」という概念によって最終的に焦点が人間に帰ってくるのがユニークだったし、それがゲームプレイと一致する美しさがあった。それを踏まえて松明システムを見ると、これは見えない物に対する畏怖を呼び起こすことで世界の広がりを感じさせるためのギミックであり、探索型の3Dアクションゲームに実装するアイデアとしては非常に魅力的ながらも、むしろコンセプトとしては前作と真逆を向いている事が分かる。ビデオゲームを問わず多くの続編でありがちな緩みが、ソウルシリーズにおいても発生している。

厳しい言い方をしたが、勿論これは続編を作るための意図的なずらしだろう。実際のところ、本作はうまく過去作との差別化を行い、独自の魅力を引き出すことに成功している。

『ダークソウル2』は先に挙げた松明システムを代表に探索面を中心に強化した作品だ。最も大きな過去作との違いは、前作よりも更にマップが枝分かれしており、それらを自由な順で攻略できるようになったことだろう。それに加えて、探索によって得られたアイテムにより以前は通れなかったルートが解禁されていくなどの要素により、ダークソウルにメトロイドヴァニアをミックスしたかのようなゲームプレイを実現した。これは高難易度故に閉塞感が強くなりがちであったソウルシリーズに風通しの良さを与えるといった相乗効果もあった。

ただし、本作は基本的には優等生であった故に、宮崎Dの属人性によって支えられていた部分を露わにしたと思う。世界観を探索に特化したゲームプレイと一致させるような拘りは見られなかったし、アイテムに付属するテキストからは饒舌さが失われていた。アクションの作り込みが甘いこともその一つに加えて良いかもしれない。シリーズを追ってきたファンにとっては、どこか物足りない内容であったのも確かだった。

『ブラッドボーン』シングルプレイへの目覚め

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『デモンズソウル』に引き続きSCE(現SIE)とタッグを組んだ本作は、世界観を一新しヴィクトリア朝をモチーフとしている。舞台となるファーナムは人が獣と化す疫病が蔓延しており、猥雑で陰鬱としたゴシックホラーのような雰囲気になっている。また時代設定が19世紀となったことで、左手には盾ではなく銃を持つようになった。防御を行わない、より激しいアクションを求める方向性だ。

しかしソウルシリーズの過去作からの遷移として気になるのは、多くの要素がシングルプレイに寄っていることだろう。

ゲームを開始すると何故かプレイヤーは輸血を受けており、その最中怪しい幻覚を見る。街へ出ると病に感染した人を焼く集団に遭遇するが、彼らはプレイヤーを獣とみなし攻撃を加えてくる。プレイヤーからすれば彼らの方が狂っているようにしか見えないのだが、そう言い切ることができないという、信頼できない語り手のような物語構造を本作は採用している。しかし、これは本来一人称で物語を完結できるシングルプレイのゲームで用いられるべきストーリーテリングではないだろうか。

それでは、本作からマルチプレイ要素が無くされたのかというと、これまで通り協力・敵対プレイが可能だ。しかし、過去作との決定的な違いとして、他プレイヤーとの協力プレイを行わない限り、敵対プレイが発生しなくなった。ヤーナムの住人は病を恐れて扉を固く閉ざしているが、本作のマルチプレイは、友を招き入れるために扉を開くことで悪しきものも呼び込んでしまうというシステムになっている。これは、今作では他者からの干渉を気にせずに作品世界に浸って欲しいというメッセージでもあるだろう。

宮崎Dの狙いとしては、前作『ダークソウル』がマルチプレイ要素を肯定した内容であったため、それと対になる立ち位置としてシングルプレイに寄せた『ブラッドボーン』を制作したのだと思われる。

また、ソウルシリーズは多くのフォロワーを生み出すなどの多大な影響力を持ちながらも、どこか決定的な評価を得られなかった部分があった。それはシングルプレイとマルチプレイが棲み分けされないことにより、一意の体験をプレイヤーに与えてくれないことが評価を難しくしていたのだと考える。そういった意味でもシングルプレイ寄りのゲームを制作して欲しいという要請もあったと思う。

最後に余談だが、『ブラッドボーン』のストーリーは最終的にラブクラフトのクトゥルフ神話を思わせる展開を見せる。クトゥルフ神話といえばTRPGであり、ここでもアナログゲームからの影響を思わせる。『ブラッドボーン』では人間性の代わりに”啓蒙”というパラメータがあり、これを上昇させることでステージの背景を蠢く魔物のような存在が見えるようになってしまう。これはクトゥルフ神話TRPGにおける”クトゥルフ神話技能”を思わせる。

『ダークソウル3』収束するソウルシリーズ

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『ダークソウル3』のディレクターを宮崎氏が務めると聞いたとき、どんなゲームになるのかうまく想像できなかった。先に述べた通り、宮崎氏はコンセプトから逆算して作品世界を作ることを徹底してきた人であり、それゆえ続編を作るという発想になりにくいからだ。実際のところ、インタビューによると元々他のディレクターが担当していたがあまり上手くいかず、神社長の指名で引き取ったプロジェクトであるらしい。では、完成したものがどのような内容であったかというと、シリーズ屈指の異色作に仕上がっていた。

本作ではロスリックと呼ばれる新しい土地を舞台にしており、一見新規のプレイヤーでも楽しめるよう配慮された、独立性のある作品のように見える。実際それは嘘ではなく、過去作をプレイしたことが無くても最新の技術で制作されたソウルシリーズの新作として十分楽しむことができるだろう。けれども、それだけでは本作の裏側にあるコンセプトに気付くことができない。

ゲーム開始後最初の山場となる、ファランの城壁と呼ばれるエリアがある。全体が毒沼に沈んでおり、所々に残った建築物を足がかりに進んでいく陰鬱とした場所だ。しかし、登場するモンスターの風貌や、取得できるアイテムのフレーバーテキストなどの断片的な情報を繋ぎ合わせていくと、この場所は『ダークソウル1』に登場したウーラシールという緑豊かな土地が、経年変化の末に変貌した姿なのではないかという疑惑が浮上するようになっている。

つまりロスリックとは『ダークソウル1』の舞台であったロードランが面影が失われるまで擦り減った場所であり、『ダークソウル3』は全編を使った環境ストーリーテリングによって滅びゆく世界を描いたゲームだ。

これまでもソウルシリーズは廃墟のような場所を舞台にしてきたが、今作では以前の姿を知っている故に、何が損なわれたのかをプレイヤーが気付けてしまう。例えば、前述した『ダークソウル1』の文章で神々と人の対立構造について触れたが、『ダークソウル3』の世界では神の姿が見当たらない。グウィン王が懸念していた、火が失われた後の時代がほぼ実現している。しかもそれで人が繁栄したのかというと、失敗し狂気に堕ちた姿を見せつけられる。

また、『ダークソウル3』は様々なアプローチでシリーズを集約しようとする。ゲームを進めていると、『ダークソウル1』に登場したアイテムが本来の教えを失い異なる用途で使われている姿を見ることがある。これは穿った見方かもしれないが、会社の要請で続編を作り続けたことで発散したダークソウルシリーズの歴史を振り返っているかのようだ。

さらに、集約の対象はダークソウルシリーズのみに留まらず、『デモンズソウル』にあった要素がイースターエッグ的に仕込まれている。しかしこの手法は、プレイヤーを喜ばせるファンサービスかもしれないが、同時に『ダークソウル3』の世界の広がりを感じにくくさせる効果が出ている。極めつけに、ゲームのエンディングを飾る最終ボスは、プレイヤーと同じ技を使ってくる人型のボスであり、過去作のエンディングで世界の火を継いだ我々プレイヤーをモチーフにしている。個人的な感想だが、これはモニタに映り込んだ自分を見てしまった時のような居心地の悪さを感じた。

『ダークソウル3』は、序盤から熱の無い世界が横たわっているかのような荒涼とした印象をプレイヤーに与え続ける。そしてその世界すらもエンディングへ向けて徐々に終息していく。その姿が倒錯的な美しさを生んでいる異質な作品だ。

ダークソウルシリーズは本作をもって一旦の幕を閉じることがアナウンスされた。神社長時代の企画はこれで終わり、ここから宮崎氏体制下のゲーム制作が進められていく。

宮崎氏体制のフロム・ソフトウェア

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宮崎氏体制に移行してからは過剰なリリースは一旦落ち着き、しばらくして『Déraciné』や『SEKIRO』などの完全新規タイトルが発表されていく。フロム・ソフトウェアの開発ラインが一時ソウルシリーズで埋め尽くされたことは、宮崎氏の望むところでは無かったのだろう。

特に『Déraciné』は古典的なアドベンチャーゲームをVRで描くという、近年のフロム・ソフトウェアに求められてきた方向性から外したタイトルであり、多様性を取り戻そうという意思が感じられる。

また、コアなファンにとって宮崎氏の制作するADVは待望だったと思う。過去のインタビューで座右の銘は「ナナハンで首都高」(恐らく『臭作』の名言)と答えたり、『Fate/stay night』の15周年記念でコメントを出すなど、ADVへの造詣の深さを見せていたからだ。事実、『Déraciné』はプレイヤーとゲームの関係を問いかけるADVの王道のギミックを用いた傑作だった。

『SEKIRO』一意の体験

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ソウルシリーズの遷移について触れてきたこの文章では、『SEKIRO』について語ることはあまり無い。鉤縄で空中を飛び回るゲームプレイが象徴するように、『SEKIRO』はソウルシリーズのルールから完全に自由になっているからだ。TRPGからの影響はもはや無く、3D空間を自在に動き回るアクションゲームの根本的な快楽に従って設計されている。プレイヤーは分身となるキャラクターを作成したりはせず、強敵の苛烈な攻撃を受け流しながら主人公の狼にシンクロしていく。『ブラッドボーン』ではキャラクタービルドの影響を受けにくい最序盤のボスであるガスコイン神父戦の話題が多かったが、『SEKIRO』ではゲーム中盤の壁となる弦一郎戦がハイライトとして語られていたのは痛快だった。ついに全てのプレイヤーが一意の体験について語り合う事ができたのだ。