実は自分はテイルズオブシリーズのファンで、『スカーレットネクサス』は『テイルズオブヴェスペリア』開発陣による新作と聞いて継続的に情報を追ってきた。それ故に、ダブル主人公を採用していると初めて聞いたときは不安を感じた。かつて同じ構成を採用した『テイルズオブエクシリア』は、自分にとってそのコンセプトが裏目に出た作品だったからだ。
しかし、公開されたストーリートレーラーで2人の主人公が命を狙い合う関係にあることが明かされたとき、この不安は反転した。今回は本当にテイルズでは出来ないことをやろうとしているんじゃないか…。実際にゲームをプレイしてみて、この予感は正しかったと感じた。
『スカーレットネクサス』はプラチナゲームズ作品に匹敵する手触りの良いアクションを持ったゲームだが、今回はあえてそちらには触れず、キャラクターゲームで高い火力を出すストーリーテリング・ストーリー構成とは何か?ということに特化して考える文章になる。
なお、『スカーレットネクサス』のネタバレを含む。
『エクシリア』の反省 ダブル主人公は難しい
『エクシリア』は『スカーレットネクサス』の穴吹ディレクターもバトル班として開発に参加していた作品で、ダブル主人公を採用していた。キャラクターの魅力で牽引していく『テイルズオブ』でダブル主人公をやろうという発想自体は自然なものだったと思う。でも、実際に開発を進める中で分かってくる現実的な課題にうまく対処できなかった作品だと当時感じた。
ゲームで群像劇を描く手法と言えば、『街』や『十三機兵防衛圏』のように複数のキャラクターを切り替えながら進むザッピングシステムが思い浮かぶが、『エクシリア』はこれをしなかった。あくまでパーティメンバー全員で世界を冒険するというお馴染みのゲームプレイは変えたくなかったため、現実的な落としどころとして、同じ場所にいる2人の主人公のうち、プレイヤーが選択したキャラクターの内面のみがモノローグで把握できるという構成を採用した。
流石にこれだけでは味気ないので、時折主人公らを別行動させて片方のストーリーのみをプレイヤーに見せたりもするが、”興味深い情報不足な状況”をつくることができず、単純に一回の通しプレイで描かれるドラマが減るというデメリットの方が強く出てしまった。結局、以降の『テイルズオブ』でダブル主人公がふたたび採用されることはなかった。
最終的に『エクシリア』は保守的な方向性でまとめ上げたが、もし大胆にザッピングシステムを採用していても、成功していたかは怪しいと思う。複数のキャラクターを平等に扱う群像劇の語り口は、俯瞰的に全体を眺めるような印象を与えるため、ある特定のキャラクターに感情移入させる効果は薄くなる。例えば『GTAV』はシリーズで初めてザッピングシステムが取り入れられたが、あれは「魅力的なキャラクターをたくさん出そう!」というのが全ての目的ではなく、3人の主人公を切り替えていく中で、街そのものの存在感をプレイヤーに感じさせようという取り組みだろう。こういった群像劇の効果は、『テイルズオブ』のようなキャラクターゲームに期待されるストーリーとは実は真逆を向いているのではないか。
ちょうど『エクシリア』と同時期に展開していたMCUの『アベンジャーズ』シリーズにその問題を感じていたが、こちらはあるタイミングでうまく解決策を出したと思った。
MCUのケース アベンジャーズとシビルウォー
いきなり貶しから入ってしまったが、自分は基本的にMCU作品には好意的で、フェーズ3までの作品は全て見ている。それ故に、クロスオーバー展開の華である筈の『アベンジャーズ』が印象に残らない映画になってしまうことが不思議だった。同じ画面に異なる映画の主人公が並ぶインパクトは凄まじいが、彼らの単独作品に比べると明らかにドラマは薄い。
でもこれは仕方のないことで、映画の2時間という尺の中で群像劇を、それもキャラクターの魅力で牽引してきたシリーズ作品でやるのは難しい。各キャラクターにまんべんなく見どころを与えるだけで時間を使い切ってしまい、更にヒーローらが束になっても勝てないような説得力のあるラスボスをセットアップして、その上で興味深いドラマを描くなんてのは無理だ。せいぜい「チームで何かを成し遂げました」程度の事を描くくらいしか出来ない。
物凄いアイデアだと思っていたクロスオーバー企画も、形にしてみるとこんなに厳しいのかと軽く打ちのめされていたが、これらの問題が突然解決されて驚いたのが『シビル・ウォー』だ。
この映画は『シビル・ウォー』の名の通り、ヒーローたちの内乱を描いた作品だ。『アベンジャーズ』と同様に多くのキャラクターが登場するが、ドラマの焦点は2陣営のリーダーであるアイアンマンとキャプテンアメリカの対立に集約されており、見やすさとインパクトの両方が担保されている。何より、中途半端なラスボスを時間を割いてセットアップする必要が無いのが良い。
キャラクターの魅力で牽引する作品で群像劇をやりたいとき、ヒーロー同士を戦わせるのは非常に理にかなったアイデアだ。
『スカーレットネクサス』は内戦するキャラクターゲーム
大きく横道に逸れたが、『テイルズオブ』が『アベンジャーズ』なら、『スカーレットネクサス』はまさしく『シビル・ウォー』の構図を持った作品だ。PVの通り、やはり本作は2人の主人公が対立する構図を本格的に採用していた。その状況に至るまでのジェットコースターのような展開は本当に素晴らしい。
アーティストの山代政一氏が手掛ける”怪異”のデザインは、プレイヤーに一目で異物感を抱かせる強烈なものだ。しかし、実はこれはストーリー展開を読ませないためのブラフでもある。冒頭において”怪異”の正体の一端が明かされることで、素朴に信じていた人類VS怪異の構図はあっけなく崩れ去り、事態の全容を把握しきれぬまま2人の主人公を対立させる決定的な事件が発生してしまう。
『スカーレットネクサス』のストーリーを読み進める感覚は、例えるならば『進撃の巨人』に近いものがある。それもダブル主人公を使って、エレンとライナーのどちらかをプレイヤーに体験させるような”えげつない”ものだ。また、対峙する相手が「プレイヤーが選ばなかった方の主人公」という、ビデオゲーム的な意味で最もキャラが立った存在であるのも面白い。
先ほど『アベンジャーズ』でうまくいかなかった部分が『シビル・ウォー』で解決されたという説明をしたが、これは『エクシリア』と『スカーレットネクサス』の関係にもそのまま当てはまる。
2人の主人公は対立しているため、プレイヤーは片方の陣営の様子しか把握できず、常に情報は断片的になる。もしプレイヤーが男性主人公のユイトを選択した場合は、もう一人の主人公に命を狙われている理由すら知ることが出来ない。しかしこれこそが本作の重要な部分で、この謎がストーリーを牽引する重要なフックとして機能しており、『エクシリア』では出来なかった”興味深い情報不足な状況”を作り出している。
『スカーレットネクサス』は、『テイルズオブ』での経験値を活かしながら、内戦という構図をうまく使い群像劇を描いて見せた稀有なキャラクターゲームだ。これは殆ど前例が無いものであり、新鮮かつ魅力的なものになっている。
『スカーレットネクサス』の物語の落とし方 キャラクターと構成の天秤
『スカーレットネクサス』の内戦を使ったストーリーテリングは文句なしに面白い。しかし、終盤の展開には不満がある。それはあるタイミングで2人の主人公があっさりと和解し、合流してしまうから。対立構造により作品全体を纏っていた緊張感が霧散してしまう。
また、代わりに最後に対峙することになるラスボスを興味深い存在にするためのセットアップが始まってしまうのも勿体ないと感じた。これをやらなくてよいのが内戦型ストーリーテリングの最たるメリットの筈だ。もちろん、尺に制限の無いビデオゲームなので、これまでに積み上げてきた世界のディティールから逆算しながら、2人の主人公が束になって対峙するに相応しいキャラクターを描くことも不可能ではない筈だ。しかし、実際に現れたキャラクターは残念ながら印象深い人物にはなっていなかった。
やはり、プレイヤーに強いインタラクションを与えるならば、2人の主人公が命を奪い合うまでは行かなくとも、どちらかの主人公が勝利するかによって世界の行く末が決定的に変わってしまうというストーリーが良かったのではないかと思う。
本当のところ、開発中にはそういった案も候補には挙がっていたのではないかとは思う。しかし、本作が『バンダイナムコスタジオの強みを活かした作品』というコンセプトで立ち上げられた通り、やはりキャラクターを愛しているが故に、キャラクターと構成を天秤にかけたときに後者を選べなかったのではないか。
結末には人それぞれの好みがあるだろうが、『テイルズオブ』を長らく追ってきた自分としては、ここで『テイルズオブ』で出来ないことをやらないでいつやるんだと感じたのも事実だった。
不満点を最後に持ってきたせいで厳しい締め方になったが、本作は内戦の構図を代表に、キャラクターゲームでの火力の出し方に自覚的である点が面白いと思う。バンダイナムコスタジオはこの路線を継承して、更なる純度のキャラクターゲームを追求して欲しいと素直に期待したくなるゲームだった。
おまけ
歳をとらない怪伐軍とToo Japanese
かつて『GRAVITY DAZE』の開発チームが、「Too Japaneseなゲームって…海外で評価されないの?~『GRAVITY DAZE/重力的眩暈:上層への帰還において,彼女の内宇宙に生じた摂動』の場合~」という公演をCEDECで実施したことがあった。これによると、「Too Japanese」な・・・つまり日本らしい作品を海外市場でも成功させるためには、尖った部分は残しつつも「日本的なお約束」な記号表現を使わないようにするのが有効だという。
例えば「笑うときに目を閉じる」という表現は日本人には自然なものだが、海外のアニメファンは違和感を感じるという。この場合、笑顔の時も目を空けて開くように変えるのが正解だ。
これを意識しながら『スカーレットネクサス』を見た時、歳をとらない怪伐軍の設定はとても面白いと思った。本作の世界では、怪伐軍に所属する人間は超能力を安定させるために加齢を抑制する薬が投与されており、見た目と実年齢が一致しないのだという。しかし、これは人体改造によってサイバーパンク的な世界観を出すための設定ではなく、むしろ「Too Japanese」らしい無茶なキャラクター設定を通すためもののだろう。
例えばパーティーメンバーの一人であるルカは、少年の見た目で、低身長で、短パンを履いていて、なぜか身の丈に等しい巨大なハンマーを扱う。しかし、彼の正体は怪伐軍トップの実力を持つベテランで、先輩として主人公をサポートしてくれるのだ。
こういった日本のアニメ特有のキャラクターの記号性を逆手にとった設定は、既存の作品では『エヴァンゲリオン』が思い浮かぶ。TV版における「無条件に主人公を信頼してくれる綾波は母親のクローンだった」や、新劇場版での「歳を取らないエヴァンゲリオンパイロット」がそうだ。あれは好意的に見れば観客をダイレクトに作品世界に参加させるための演出と言えるが、やはりアニメファンへの嘲りのように使われている部分が大きい。
『スカーレットネクサス』の歳を取らない設定が面白いのは、世界で受け入れられるキャラクターゲームを作ろうと真面目に取り組んだ結果、あくまで機能的な目的から同様のアプローチにたどり着いたことだ。内戦の構図同様、本作がキャラクターゲームの極北であることを示すエピソードの一つだ。
実弥島巧氏のゲームシナリオ
本作のジェットコースターのような展開や、2人の主人公が別行動することで生まれる空白の調理の巧みさを見た時、シナリオの実弥島巧氏がうまくやってくれたんだなと思った。
実弥島巧氏は『テイルズオブ』の人気作である『テイルズオブシンフォニア』や『テイルズオブジアビス』でシナリオを担当した人物で、デフォルメの効いたテイルズのグラフィックからは想像もつかないようなハードな世界を描くことに定評がある。しかし、この方は本当に凄いなと感じたのは実は運営型アプリゲームの『テイルズオブザレイズ』だったりする。
『テイルズオブザレイズ』は、シリーズ歴代キャラクターが一堂に会する言わば”お祭りゲー”ではあるが、そのイメージに反して2人のオリジナルキャラクターを主人公に据えたシリアスなストーリーが展開される。世界観は企画の要請をうまく反映しており、「主人公達は異世界の英雄を召還できる鏡士なんだ」など、クロスオーバー作品らしい設定が付与されている。しかし物語が進行するにつれて、容易く英雄を召還できる世界で主人公に選ばれた2人は何者なのか?という所から逆算したかのような陰鬱な真実が明らかになっていく。そしてその内容はCLAMPの漫画『ツバサクロニクル』に近似していくのである。
『ツバサクロニクル』も主人公の小狼とサクラが様々な世界を渡り歩き、時にはCLAMPの過去作の登場人物とも出会うクロスオーバー作品である。『カードキャプターさくら』の小狼とサクラが異なる設定を持ったキャラクターとして再登場することに驚かされるが、ストーリーが進むにつれて、なぜこの2人に異世界を渡り歩く運命が課されたのかが見えてくる。2人の正体が明らかになることで世界の見え方が完全に変わってしまう。これが28巻にもなる長期連載の半ばで行われるというのが、本作の大きな肝の一つだ。
ここで言いたいのは、『テイルズオブザレイズ』は『ツバサクロニクル』を参考にしたのでは?という指摘ではない。クロスオーバー作品かつ長期運営型のアプリゲームであるという要請から逆算してシナリオや世界観を構築した結果、『テイルズオブザレイズ』は『ツバサクロニクル』に近似したのだ。
恐らく、実弥島巧氏は正しくビデオゲームのシナリオを構築するのがうまい方で、ゲームの枠組みを把握して、そこから逆算して最も火力の出せるシナリオ・世界観を構築できるライターさんなのだと思う。ハードな展開は火力を出すためのテクニックの一つでしかないのかもしれないし、やっぱり好きでやっているのかもしれない。
『スカーレットネクサス』はダブル主人公という難しい題材ながら面白いシナリオに仕上がっていたが、これは実弥島巧氏の能力がピタリとハマったからなのかなと考えている。