「ストーリーのつくりかたとひろげかた」を読んだ

「ストーリーのつくりかたとひろげかた」を読んだ。イシイジロウ氏の考察やノウハウを惜しげ無く共有してくれるとても良い本だった事を大前提として、気になったのは3幕構成や15のビートの話。15のビートを使って『アイアンマン』のストーリーを解析してくれる所まではいいとして、どうビデオゲームに転用するかについては少し触れる程度で、具体的なタイトルを解析した実例がなかった。これは、本書がビデオゲームのみならずイマーシブシアターなど様々なメディアを含んだ広い意味でのストーリー論であることや、実例を書くにしてもRPGなのか、テキストアドベンチャーなのか、アクションゲームなのか、ジャンルによって都合が違いすぎて書くにはきりが無いから、そこから先は読者に任せて他にページを割くべきだという判断なんだと思う。

私的なメモに近い文章になるけど、本書を読んで補足的に考えたことや、15のビートを使ったストーリー解析の実例として、先日このブログで感想記事を書いた『アルトデウス:BC』の解析をやってみたので、こっそりここに書き残しておく。(ネタバレ注意)

前提

原本読んでね。

15のビート

15のビートとは、ブレイク・スナイダーが提唱したストーリー構成のフォーマットで、3幕構成のフォーマットを独自に細分化したもの。具体的には以下。

1.オープニング・イメージ
2.テーマの提示
3.セットアップ
4.きっかけ
5.悩みのとき
6.第一ターニング・ポイント
7.サブプロット
8.お楽しみ
9.ミッド・ポイント
10.迫り来る悪い奴ら
11.すべてを失って
12.心の暗闇
13.第二ターニング・ポイント
14.フィナーレ
15.ファイナル・イメージ

これは約2時間の映画に特化したメソッドで、このテンプレートをなぞるだけで、一人の主人公が何らかの試練に挑み生まれ変わるという王道のストーリーが出来上がる。各項目の説明は原本を読んで欲しい。

全ての映画に適用できるわけではないにしても、例えば一番注力したいのはビジュアルなのであえてストーリー進行は凝らずに王道でいいというスタンスで映画を撮るなら、このテンプレートは大いに役に立つ。また、複数人でシナリオを推敲するとき、この完成されたテンプレートがあることで客観的な基準に基づいて議論ができる。

イシイジロウ氏によると、このビートを参考に独自にカスタマイズすることで、映画以外のメディアにも応用ができるという。

ゲームメカニクスでストーリー構成を担保する

まず15のビートを見て思ったのは、一部のビデオゲームはこのテンプレートをゲームメカニクスなり進行フォーマットなりに最初から取り込んでるよな、ということだった。

例えば『ペルソナ4』、『ペルソナ5』は分かりやすくその筆頭だと思う。ペルソナ使いがペルソナを発現する条件自体が己の葛藤と向き合うことであり、一人のキャラクターがペルソナを発現するまでを描くことがそのままセットアップから第1ターニングポイントにあたる。これを新しい仲間が現れる度にリピートする構造なので、これを守るだけで引きのある展開を維持しながら強い強度を持ったキャラクターがどんどん揃っていく。全ての仲間が揃ったら、そこからミッドポイントに繋げてファイナル・イメージまで駆け抜けてしまえば良い。(また、昨今のペルソナが他のRPGと比較して抜き出ているのは、仲間集めが一番盛り上がるのだから、全員揃ったら余計なサブプロットを挟まずに直ぐにフィナーレに入るべきだと割り切っているところだとも思う)

VR ADVである『アルトデウス』もこの点が恐ろしくよく出来ている。『アルトデウス』はVRを使ったロボットバトルによる戦闘パートが大きな魅力だ。しかし本当の肝は、その戦闘の中でプレイヤーに何らかの2択を問うシステムが組み込まれており、その選択の結果によってストーリーが分岐していくことだ。図にすると以下。

つまり、まずADVパートで状況説明や主人公の葛藤といったセットアップをじっくりと行い、全てのお膳立てが済んだら戦闘パートに突入し、ドラマにおいて最重要なターニングポイントにあたる決断をロボットバトルの中でプレイヤー自身にやらせるという仕組みだ。これは、少年少女がロボットの力を借りて自身の願望を叶えようとするという『エヴァ破』のラストシーンのような典型的なロボットアニメ的ドラマをゲームの中で再現している。『アルトデウス』のみならず、クロノスシリーズはジャンルを意識したADVゲームの骨格を作り上げるのが本当に上手い。

これが出来ているロボットアニメモチーフのビデオゲームはなかなか無いと思う。単純にアクションゲームにしてしまうと、そこにプレイヤーの決断が介入せずドラマになりにくいからだ。以前プラチナゲームズの稲葉氏もGDCの講演で触れていたけれど、アクションゲームとは敵が出現したり弾が来たから避けるといった何か起こったことに対して対応するといった「受動的なゲーム」であり、ドラマを作りたければよく練られた仕様を切らなければならない。

(時に)プレイヤー主観フローチャートで分析する

15のビートでADVゲームを分析するときに注意すべきは、時にシステム的なフローチャートのままで分析せず、プレイヤー主観フローチャートに変換することだと思う。これは、常にプレイヤーがフローチャートの末端へ下り続けるようなタイプのゲームでは不要だが、あるENDを見た後にフローチャートの前半にまで戻って別の枝を辿るような構造を持つ場合、システム的フローチャートのままではプレイヤー主観でどのような物語になっているのか分からない。プレイヤーに与えるサプライズの位置が適切なのか、プレイヤー主観でカタルシスを得られるような物語展開になっているかなどを確認したいとき、この方法が活用できる。

何を言っているのか分かりにくいと思うので、実例として『アルトデウス」のプレイヤー主観フローチャートを使って分析をしてみる。

ここから『アルトデウス』の重要なネタバレに突入するため注意して欲しい。

『アルトデウス』のプレイヤー主観フローチャート

プレイヤー主観フローチャートは以下の通り。実際はエンディングの種類はもっと多くフローチャートも複雑だが、重要なものだけ抜きだして簡略化している。

『アルトデウス』のあらすじは、公式サイト自分の書いた感想記事を参考にして欲しい。最低限として、主人公「クロエ」には異生物メテオラに捕食されて死んだ親友「コーコ」が居る事、その「コーコ」の面影を持った「ノア」と「アニマ」という人物が居る事が把握出来ていればいい。


懐古ENDの存在意義:バッドエンドにセットアップを仕込む

「懐古END」は自分が付けた名称で、作中では「Astray from the Polaris」と呼ばれている。初回プレイでは必ずこの「懐古END」に辿り着く。2週目から戦闘における選択肢が解放され、「ストーリー共通2」へ進行できる仕組みだ。なぜ一度プレイヤーに「懐古END」を経験させるかというと、クロエとコーコの関係性を説明するためのセットアップとして用意されたエンディングだからなのだと考えている。

「懐古END」はいわゆるバッドエンドに該当するもので、コーコの姿をしたメテオラに主人公クロエが自ら身を委ねてしまい、捕食されてしまうというもの。このエンディングは、心の支えであったコーコを失ったクロエが孤立状態にあり、ギリギリの精神状態で生きていたことを究極的な状況を使って示している。

感想記事にも書いた通り、自分は本作はマイノリティの連帯の寓話だと考えている。クロエを見ていて思い出すのは、セクシャル・マイノリティが登場する小説を書く李琴峰の『独り舞』の主人公「迎梅」だ。「迎梅」は心惹かれていた同級生と死別しており、死への想いに憑りつかれている。また、セクシャル・マイノリティとして内なる疎外感に苛まれている。

「懐古END」を通してプレイヤーにクロエを理解してもらい、それから生きる可能性をもう一度模索し直すというのがこの分岐の存在意義だと考えている。

キャラクターごとにセットアップを繰り返す

「ストーリー共通2」では、コーコの面影を持つ2人の人物のエピソードが描かれる。ここでは美少女ゲーム的な構造を使って、各キャラクターとのエンディングを順番に体験することになる。

これは前述した『ペルソナ』のように、キャラクターごとのセットアップを繰り返すRPGやADVゲームにおける王道のシリーズ構成だ。『アルトデウス』においては、孤立するクロエが想像もしていなかった味方の存在に気付き、心情が変化していくパートにもなっている。各キャラクターのエンディングを見る度にフローチャートは分岐元まで巻き戻るが、クロエの世界が広がる可能性を見たプレイヤーの目線では進行感が得られるようになっている。実際に2人分のエンディングを見る事で、コーコの死の真相に迫るTrue Endへのルートが解禁される。

ちなみに厳密には『アルトデウス』は『ペルソナ』と違って、キャラクターごとのルートにて最終的に葛藤を抱えるのは、ノアやアニマでは無く主人公のクロエの方である。これは、このパートで語るべき内容が「クロエが味方の存在に気付く」ことなので、セットアップの対象は個別のキャラクターでも、最終的な葛藤や決断を下して変化する人物はクロエの側でなければならないということだ。

アニマルート:グロテスクな展開をサイドルートに隠す

アニマルートでは、True Endではとても採用できない『アルトデウス』の残酷な面をビデオゲームならではのifストーリーとして描いている。

コーコの記憶を引き継いだメテオラであるアニマを守ることに決めたクロエは、アニマを殺そうとする大人たちから逃げようとする。しかし、今まで散々クロエのことを心配していたはずの男性の戦友2人がこの肝心な時に味方をしてくれない。結局片方のパイロットとはロボットに乗っての殺し合いになってしまう。

これは、『エヴァ破』でシンジ君がネルフ本部を初号機で破壊しようとした時の様なエゴを突き通そうとする主人公像を想起させつつ、裏では新しい価値観を受け入れられない男達がマジョリティの特権に引き籠ってしまう姿を見せつけるグロテスクな場面なんだと自分は捉えている。

このエピソードを見た際に解禁される実績の名前が「許されざる者」であるのも確信犯だ。元ネタであるクリント・イーストウッドの映画を知っていれば尚更だが、誰が「許されざる者」なのかをプレイヤーに考えさせる。

『アルトデウス』ではこういったベタなロボットアニメ的な展開を見せながら、裏で別の文脈に書き換えるといった試みが各所でなされている。

セントラルクエスチョンは変化しない:TRUE ENdへの誘導

ここまで説明しなかったが、イシイジロウ氏は主人公をセットアップする上で「セントラル・クエスチョン」を意識することが重要であると述べている。これは主人公が解決しなければならない問題の事で、これを早々にプレイヤーに提示しないとストーリーの方向性が見えずゲーム世界から取り残されてしまう。また、ストーリーの途中でセントラル・クエスチョンが解決されても良いが、すぐに次のセントラル・クエスチョンを提示することが重要であるという。

ADVゲームではルートによってセントラル・クエスチョンが変わるというのは有りがちだと思う。それ自体は良いとして、いわゆるTrue Endが存在するタイプのADVゲームでは、その存在をどこかで示唆しておかないとプレイヤーが途中でゲームを止めてしまう可能性がある。

『アルトデウス』のセントラル・クエスチョンは良く出来ていて、初めから「コーコの死の真実」のまま変わらない。冒頭における「懐古END」へ繋がる分岐を断ち切って「ストーリー共通2」に入る選択をした時点で、ターニングポイントを経験したプレイヤーは「コーコの死の真実」を探るモードに入るようになっている。正しくセットアップが完了している訳だ。ノアルートやアニマルートに突入するとセントラル・クエスチョンは一時的に短期目標に書き換わるが、各キャラクターのエンディングに到達しても最初に提示された「コーコの死の真実」が明かされず違和感が残るため、True Endの探求にすぐに戻れるようになっている。

また、演出やシステム面でもセントラル・クエスチョンの再確認が行われる。本作は場面転換の節目において、夢の中の世界でコーコがクロエに語り掛けてくるというシーンが意味ありげに何度もインサートされるようになっている。それこそ何らかのサイドエンディングに辿り着いた後は、ここはTrue Endでは無いとばかりに必ずインサートが入る。更なるダメ押しとして、この夢の中の世界が、何故かフローチャート表示機能である「アリアドネ」と似たデザインになっているという仕込みもある。

この辺りは、本作がVRというプレイヤーに強い負荷のかかる形態を採用しているのもあって、プレイヤーを迷わせないためのフォローが行き届いている。

グランドフィナーレ

ノア、アニマとのエンディングを経験した後は、コーコルートとも呼ぶべき「コーコの死の真実」を明らかにするための展開に一気に突入する。クロエとコーコの関係は一番最初にセットアップが完了しているので、そのままミッドポイントに繋げてファイナル・イメージまで駆け抜けてしまえば良い。

プレイヤー主観フローチャートは必要?

正直『アルトデウス』はシンプルなフローチャートを持ったゲームなので、プレイヤー主観フローチャートを作るまでも無かったかもしれない。ただし主観に並び変えることで、「懐古」エンドがセットアップに含まれることや、本作のストーリーがクロエとコーコの関係に終始する構成になっていることが分かりやすくなっている。

ノア、アニマルートは必要?

プレイヤー主観フローチャートだけを見ると、ノア、アニマルートはサブプロットであり、無くても成立するように見えるかもしれない。しかし結論から言えば必要である。

感想記事にも書いた通り、人造人間であるクロエは『アルトデウス』の世界でマイノリティな存在であり、本作は唯一の寄り辺であったコーコの喪失からクロエが立ち直るまでの物語である。そのために、SF的な設定で描かれる未知なる存在であるノアやアニマと交流することがクロエの回復のために必須となっている。あるいはそれに代わる別のエピソードを挿入する必要があるだろう。

本作のストーリーをざっくり3部構成(3幕構成とは関係ない)で整理すると、クロエと世界観のセットアップを行う第一部、クロエが未知なる他者と交流することで回復する第二部、回復したクロエが親友の死の真相に向きあう第三部、と分けられると考える。


解析は以上。的外れな内容になっていたら申し訳ない。(こっそり指摘下さい)

実際に解析して思ったのは、15のビートは確かに映画に最適化されたメソッドで、2時間の尺で主人公に与えられる試練は大体2回であるという前提で作られたテンプレートということ。なので、尺に制限の無いビデオゲームにおいては、一つのエピソードを「3. セットアップ」~「6.第一ターニングポイント」と捉えて反復していく使い方になる。また前述した通り、できればゲームメカニクスなりゲーム進行の中にこういった強固なストーリー展開のフォーマットを組み込んでしまうことがベターだと考える。

あと、プレイヤーは言語化することに慣れていないだけで、強固な物語構造が成立した作品になっているか否かは多くの人が気付くものだと思う。『ペルソナ5』で明智君がロクなセットアップがされないまま仲間になってしまった事に、多くのプレイヤーは違和感を感じた筈だ。定石が分かっていれば意図的にそこを外すことで効果を作ることもできるので、この本に書かれている知識は知っておいて損は無いと思う。