『アルトデウス: BC』感想 百合とADVと『惑星ソラリス』

『アルトデウス:ビヨンドクロノス』をプレイして驚いた。本作のストーリーは明らかにスタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』を下敷きにしていたからだ。

『ソラリス』は多様な解釈が可能な作品だ。それ故に、これまで2度映画化されたが監督ごとにその内容は異なるものになった。1度目は有名なタルコフスキー版、2度目はソダーバーグ版だが、どちらに対してもレムは納得がいかず批判的な態度を取っている。

でも『アルトデウス』がやっているのはそういうレベルの話じゃない。SFファンほど「え?」と思ってしまうアイデアだけど、「惑星ソラリスにおける主人公の葛藤ってADVゲームにできるんじゃないか」という事に気付いて、それを本当にやってのけてしまった。更に、主役級の人物を女性にすることで、百合の関係に書き換えるといったアップデートもなされている。

この感想記事では、本作と『ソラリス』の関係に触れつつ、また『アルトデウス』がそこに何を付け加えたのかについて考えてみる。

ラブロマンスとしての『ソラリス』

まずは『アルトデウス』と『ソラリス』のストーリーがどのように似通っているのかを説明していく。

『ソラリス』のあらすじは以下のようなものだ。

主人公「ケルビン」は研究員として「惑星ソラリス」にある宇宙ステーションを訪れる。しかし宇宙ステーションでは研究員らの記憶の中の人間を「ソラリスの海」がコピーして送り込んでくるという現象が発生していた。ケルビンの前には10年前に自殺した恋人「ハリー」が現れ、自責の念に苦しむ。

『ソラリス』の魅力の一つとして、復元された恋人とのラヴロマンスは可能かという問いがある。

宇宙ステーションで出会うハリーはケルビンの記憶から生み出されたが、ケルビンのバイアスのかかった都合の良い恋人などではなく、完全な自己を持った人間として振る舞う。この状況はケルビンを悩ませる。素直にかつての恋人と再会したのだと捉えるならば、これは一度悲劇に終わった関係をやり直すチャンスだ。しかし、同じ記憶と性格を持っているだけの他人であると捉えるならば、復元されたハリーと関係を持つことは本物のハリーに対する裏切りになってしまう。

人間の同一性は何をもって定義されるのか?
人間でない存在でもヒトらしい感情があれば愛情関係に至れるのか?
愛情関係に至る条件は人格への信頼なのか、共有した経験なのか?

このラブロマンスについてのSF的な思考実験の要素があったからこそ、『ソラリス』は難解なSF小説で終わらず、今ほどの人気を獲得できたのだと思う。(因みに2度目の映画化であるソダーバーグ版はこちらの路線だった)

『アルトデウス』の配役:2人のパートナー

次に『アルトデウス』のあらすじを見てみる。

近未来、コミュニケーション不能な謎の異星人「メテオラ」の襲撃により人類は地下世界での生活を強いられている。メテオラへの対抗策として生み出された人造人間の少女「クロエ」は、盲目の少女「コーコ」との交流により感情を獲得するが、コーコはメテオラに捕食され亡くなる。クロエはコーコの姿を模したAI「ノア」と共に巨大ロボットに乗り込みメテオラと戦う日々を送るが、ある時コーコを捕食したメテオラが人の形をして現れる。「アニマ」と名付けられたその人型メテオラは、コーコの記憶を有しているかのような振る舞いを見せる。

こうして比較すると分かりやすいが、ラブロマンスの要素を軸にしてストーリーを見るならば、『ソラリス』と『アルトデウス』のプロットは殆ど同じだ。死別したパートナーのことを忘れられない主人公の元に、そのパートナーに限りなく近い存在が現れ、主人公を悩ませる。

左から「クロエ」、「コーコ」、「ノア」、「アニマ」。ノアとアニマはコーコの特徴を引き継いでいる。

その上で、『アルトデウス』は『ソラリス』から明確にアレンジした部分がある。それは、復元されたパートナーが「ノア」と「アニマ」の2人に分裂していることだ。

「ノア」と「アニマ」のキャラクター設定は、『ソラリス』でハリーが持っていた要素を分割して与えているように見える。

「ノア」はコーコの死後に彼女を模してつくられたAIで、コーコの容姿を引き継いでいるが、性格は全く異なる。ノアは常に相棒であるクロエの身を案じているが、クロエにとってはコーコを思い出させる存在であるため距離を置こうとする。そこに介入してくるのが「アニマ」で、メテオラであるアニマは排除すべき対象だが、コーコの記憶を引き継いでいると思わせる振る舞いがクロエを悩ませる。

『アルトデウス』がどのように『ソラリス』をADVゲームへ翻訳したのか。その答えは驚くほどシンプルだ。それは美少女ゲームの構造を使い、いわば「ノア」ルートと「アニマ」ルートのどちらを選ぶべきかをプレイヤーに選択させることで、『ソラリス』における主人公の葛藤をプレイヤー自身に背負わせるというものだ。

このアイデアは本当にうまく機能していると思う。プレイヤーに提示される選択肢は、単純に各キャラクターにどう関わっていくかを決めるだけのものではなく、同時にSFならではの形而上的な問いにもなるよう設計されている。プレイヤーは気付かぬうちに、『ソラリス』的な思考実験に当事者として参加させられているのだ。

「ノア」と「ハリー」:人間でないがゆえの人間らしさ

『アルトデウス』について話すなら、やはり「ノア」の魅力については語っておきたい。

序盤において「ノア」と「アニマ」というキャラクターが並んだ時、コーコの容姿のみを引き継いだノアはプレイヤーに好かれやすい存在になっておらずバランスが悪い。しかし、ゲームをEDまでプレイしたときに、自分が最も印象に残ったキャラクターは「ノア」だった。

AIである「ノア」の存在は、『ソラリス』の後半に起きる展開に重ね合わされている。具体的に言ってしまうと、ハリーは自身がソラリスの海から生み出された複製体であることを知ってしまう。ハリーはそれをきっかけにして強い自己を獲得し、「本物のハリー」から逸脱していくのだ。

この展開以降のハリーの行動は読者をドキリとさせるものが多い。

涙を流しているハリーをケルビンが慰めようとすると、「ほっておいてちょうだい。どうせ本物の涙じゃないんだから」と自身が人間でないことを皮肉った返しをする。

ケルビンがハリーが自殺した原因について話そうとすると、新しい情報を得る事で自身が本物のハリーに近づくことを恐れるように、それを止める。

『ソラリス』の序盤は、死んだ恋人を追いかけるケルビンの姿に懐古的な閉じこもった印象を受ける。しかし、ハリーが変貌していくことで作品のトーンが変わっていく。

『アルトデウス』のネタバレは避けるが、AIである「ノア」は、この要素を見事に掬った存在として描かれる。「ノア」は人間でないがゆえの人間らしさを秘めており、SFでしか描けない魅力を持ったキャラクターだ。序盤をプレイしただけでも、ただ可愛らしいだけのキャラクターでなく、行動原理を全て他者に明かさない、不可侵な領域を持った、緊張感を持って対峙すべき人物であることが感じ取れると思う。

どこか読み切れない「ノア」の存在が、人類が地下に引き籠るという閉塞感に満ちた『アルトデウス』の世界に、開かれた印象を足してくれる。

マイノリティの連帯としての百合:安全なサンルーム

ところで、先に紹介したメインキャラクターは全員女性となっているが、『アルトデウス』においてこれに狙いはあるだろうか。百合的な関係性を描きたかっただけという可能性もありそうだが、クロエとコーコが作中世界においてマイノリティな存在として設定されていたことについて考えておきたい。

クロエはメテオラに対抗するために生み出されたデザインドヒューマン、つまり馴染んだ言葉に言い換えれば人造人間だ。作中でクロエ以外のデザインドヒューマンを見かけることはなく、クロエが所属するメテオラ対抗組織「プロメテオス」のチームメンバーもみな生身の人間である。その「プロメテオス」ですら少年少女を戦争に駆り出す組織として世間の一部から問題視されており、クロエはそれを冷ややかに見ているという構図もある。

クロエは極端に同族がいない孤立状態にある人物として設定されている。クロエをつくりだしたジュリィ博士というキャラクターも作中に登場するが、クロエは道具であると割り切っており、親代わりにはなってくれない。

クロエは基本的にはタフに振る舞っているが、何かに疲弊したときコーコと過ごしたサンルームに戻るという描写が作中では繰り返される。これは一部のロボットアニメで描かれてきた引き籠りがちなナイーブな主人公像を想起させつつ、異なる文脈でも捉えられるようになっている。

クロエの着用するプロメテオスの制服には、包帯を巻き付けたかの様にも見える装飾が施されている。

クロエがサンルームに戻ると、親友であったコーコとのエピソードがインサートされる。コーコもまた、盲目で脚が不自由というマイノリティな存在だ。そもそも2人が知り合ったのは、クロエがコーコの世話役としてサンルームで過ごすことを組織から義務付けられたからだ。ある意味でこの2人はサンルームに閉じ込められている。結果的に2人の親交が深まることで、このサンルームはマイノリティにとっての安全な避難場所として機能するようになる。

3Dモデルを採用したADVゲームでは、開発リソースの問題から登場させる場所は厳選しなくてはならない。その点でサンルームは象徴的な場所として多くの役割を持たされている。かつてはマイノリティのための社交場であり、今ではクロエのパーソナルスペースでもある。サンルームにクロエ以外の人物が立っている画面は、それだけで緊張感を感じさせる。

コーコが消え、硬直したクロエに干渉してくる人物が、ノアとアニマというSF的な設定で描かれる更に未知なる存在であるというのもよく練られた設定であると思う。『アルトデウス』のゲームプレイとは、この2人がサンルームに招いて良い存在なのかを見極めることであると言える。

ちなみにレムがタルコフスキー版『ソラリス』を強く批判したのは、ソラリスの海が恋人に続いて家族までも復元し、ケルビンが記憶の中の存在に傾倒してしまうという懐古的な展開にストーリーを書き換えたからだ。レムにとってのソラリスの海とは、宇宙進出により人間には理解できない現象と遭遇することのシミュレーションであり、圧倒的な他者の象徴だった。レムの原作では、ケルビンが理解できない存在であるソラリスに絶望せず身を晒し続ける姿が描かれていた。タルコフスキー版とは見事に真逆である。2人は映画の製作中に3週間にわたる議論になり、その末に喧嘩別れをしたという。

『アルトデウス』による『ソラリス』の翻訳

『ソラリス』は、宇宙を舞台に理解できない存在に身を晒し続ける姿勢を描いたSF小説であった。この姿勢は、レムの出身地であるポーランドが戦争により何度も国境線を引かれ直したという経験が影響しているのではないかと言われている。ラヴロマンスの要素は価値観を揺さぶられる体験を表現するための手段であり、本質ではないというのがレムのスタンスだった。

『アルトデウス』のADVゲームとしての構造は美少女ゲーム的なものであり、ラヴロマンスの要素を強い軸としている。しかし、同時にメインキャラクターを女性に置き換えることで、マイノリティの連帯の寓話としても読めるようにした。理解できない存在に身を晒し続けるべきだという姿勢はそのままに、宇宙進出のシミュレーションという抽象的な内容から、より身近な状況を考えるための物語として書き変えた。『ソラリス』のファンを驚かせるだけの内容でなく、広く受け入れられるポテンシャルを持った傑作だと思う。

余談だが、ここまで触れられなかったが『アルトデウス』はVRでプレイするADVゲームであることが最大の特徴としてプレゼンされてきたゲームだ。だからこそ、”VRならではでない部分”がここまで作りこまれていることに驚いた。アクセスすることが難しい作品だが、環境のあるADVゲームファンは是非プレイしてみて欲しい。