20210221 第13回恵比寿映画祭と新千歳空港国際アニメーション映画祭短編特集2

日曜日。前日はMLE(私も一日目で参加!)を見ながら日曜日締め切りの作業を進めていたら結局3時までかかってしまった。眠気をこらえながら最終日の恵比寿映画祭を見に東京都写真美術館へ。

本当は何度か訪問して色んな上映作品を見たかったのだけど、状況が状況なので今年は一本に絞って『新千歳空港国際アニメーション映画祭 短編特集②―感覚を研ぎ澄ますアニメーション』を見た。

短編特集となると普通は相性の良い作品とそうでないものが両方出てくるものだけど、全作きちんと見どころがある素晴らしいセレクションだった。忘れないように印象に残った作品をピックアップしておく。

サミュエル・パシー、シルヴァン・モニーの《エコース》。老人ホームで暮らす人々の生活を描いた作品。皴が刻み込まれた老人らのゆったりとした時間の流れにフォーカスを当てていて、その動作を巨人が動いているかのように演出していくのが面白い。ラフな線と題材の相性が抜群で、また実際の老人ホームでサンプリングしたんじゃないかと思われる立体的な環境音も効果的だった。

マリアム・カパナッツェの《アバンダント・ヴィレッジ》。この作品がヤバいのは、上記の画像に映っている一枚絵のみで進行していくこと。この荒涼とした街の様子を、霧のエフェクトを重ねたり、絵のコントラストを変えて本来の鮮やかな色調を見せるといった演出だけで、時間ごとの街の表情を見せていく。14分の上映時間を(退屈させずに)これだけで成立させている。かなり衝撃を受けたのだけどネットで作者の名前をカタカナで検索しても全く情報が出て来ない。日本では殆ど紹介されてない作家なのかもしれないと思ったものの、どうも作者が1991年生まれとのことで、見つけられないのは本当の新人だからということらしい。どういう経緯でこれがいきなり出てくるのか…。

英語名で検索したらトレーラー?が見つかったので載せておく。

その他、ふるかわはら ももかの《かたのあと》、エイドリアン・ミリガウの《ゲニウス・ロキ》も気に入った。アニメーション界隈は才能に溢れた日本人作家が次々と登場していてすごい。

展示も見る。去年は一つ一つの展示が1時間級の映像作品というのもざらで、満足度も高いが時間もかかるというハードコアな内容だった。それに対して今年は断片的な視聴でも十分楽しめる作品が集まっていて、昨今の事情を踏まえてなのか去年の揺り戻しか分からないけれどすいすい歩いていける展示だった。

中でも印象に残ったのは、この記事のアイキャッチにも使っているチャンヨンヘ重工業の作品。上記の動画の通り、チャンヨンヘ重工業は音楽に合わせてテキストを出していくだけというスタイルの映像を制作している。映像の分野は一般的に言語に頼らず絵の力だけで説明しきることが良いとされることが多く、このスタイルは一見逆張りに見えてしまうものだけど、自分としては音楽に合わせて何かが現れるだけで気持ち良いよねという映像のプリミティブな快楽を追求している作品と捉えてポジティブに楽しんだ。

最後に日仏会館で渡辺豪の《積み上げられた本》を見たけどこれも良かった。

CGで描かれた本(本物と区別が付かない)がスクリーン一杯に映し出されているだけのシンプルな内容。と見せかけて、実際は2列に積み上げられた本のうち片方だけがフレームの下へ沈んでいくといった現実ではあり得ない動きをしたり、光源の変化によって特定の本の色付きだけが変わっていくなど、完璧に現実を模倣しきった筈の3DCGに違和感を加えるような変化が画面に現れていく。演出の意図などはあまり分からなかったものの、あえて不気味の谷を見せているかのような面白い映像だった。

恵比寿映画祭はこれで終わり。天気も良かったので、周辺をちょっとだけ散歩してから帰った。

20210211

今年も恵比寿映像の時期になった。今回も現地上映は細々とやっているらしいけど、去年みたいに何度も通うのは難しそう。

仕事をしながらオンラインで配信しているラウンジトークを聞いていたのだけど、その中で「SAVE the CINEMA」の話があった。https://www.yebizo.com/jp/program/detail/2021-05-02

日本で配給されている映画の売り上げの殆どはシネコンによるものだけれど、映画の種類という観点では4割はミニシアターが配給しているものらしい。つまり日本の映画の多様性はミニシアターが担っていて、潰れると約半分の映画が見られなくなってしまう。確かに自分も以前はイメージフォーラムやユーロスペースに通い詰めていたので感覚的にも正しい数字に思える。そんなこと言いながらもう一年くらいミニシアター行けてない。コロナが終わった後、焼け野原になっていると本当に困るけどどうなるんだろう。

明るい話もすると、ストップアニメーションの講演でモルカーで大人気の見里朝希監督が登壇してた。
https://www.yebizo.com/jp/program/detail/2021-15-01

初めて聞いたけど見里監督はビデオゲームが好きらしく、ラスアスなんかもプレイ済みらしい。近年のアニメーション作家がビデオゲームを作る流れも把握しているらしく、ビデオゲーム界隈との交流が実際に過去にあったことも話していた。(東京藝大卒の筈だからVerticalSliceの件か、その後普通にきっかけがあったかどうなのか)

監督のYoutubeを見ればわかるけど、フェルト以外の素材を使ったアニメーションもどんどん手を付けている人なので、ビデオゲームと言わずとも次作がデジタル由来な表現に接近する可能性もあるかもしれない。

20210130 プロメテウス

土曜日。10時に起きるも連日の深夜作業で明らかに身体にダメージが残っている…。若干うとうとしながら万有引力の公演を見るために新井薬師へ。私用で電車に乗るのは今年初めてで、それくらい万有引力の演劇は楽しみにしている。新井薬師は中野の北側にあるのだけど、中野駅前の喧騒が嘘のような静かな場所で驚いた。人の多すぎない商店街をずーっと進んでいくと会場のウエストエンドスタジオがあった。

ただ、感想としては万有引力の公演で初めて微妙かなと思ってしまった。まず劇が始まって驚いたのが、今回の『プロメテウス』はSF世界観になっていて、それもディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』が原案になっていること。SF自体はむしろ好物なんだけど、演出スタイルもそれに引きずられていて、平沢進がライブで使っていそうな電子ハープを持った指導者(?)が現れたり、アンドロイドの射殺シーンではレーザーポインターを使って銃を表現したりする。でも万有引力の一番の魅力は演者の鍛えられた肉体を見せつけることだと思っていて、時には肌を晒しながらコンテンポラリーダンスのような常人にはできない動きを生で観らることに大きな価値がある。『プロメテウス』はSF故にそういった場面が少なくて、消化不良感が否めなかった。(たぶん自覚はあって、プロメテウスが登場する神話パートでは上半身裸の男性が鎖に縛られている姿を拝むことができた。でもそれは本パートではないという・・・。)

でも一番気になったのは、演劇で『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』をやるのはヨコオタロウ氏が『ヨルハ』と『ニーアオートマタ』でやったばかりで既視感しかなかったことだよ! 演劇で『電気羊』をやるのは、アンドロイドが殆ど人間と同じく感情があるかのように振る舞えることが、演劇において演者はそのキャラクターを演じているだけで演者自身の感情ではないということに重ね合わされているという面白さがあるんだけど、それはヨルハで既にフォローしている。(人間とアンドロイドが共同作戦を展開するなかで、アンドロイドにも感情があるようにしか見えなくなる) 地球を捨てた人類とか、『ブレードランナー』でリドリー・スコットが無視した原作のプロットを拾うのもやっぱりヨコオタロウがやってしまっている。とにかく重複している内容が多くて、新鮮味の無さになかなか劇の世界に入っていけなかった。(ニーアの事を知らなかったら、いつもと違う万有引力が見れた!くらいの気持ちで楽しめた気もする)

でもこれ、たぶん万有引力が昨今のニーアのヒットを見て真似たということは無さそうで、逆に万有引力の人達が全くビデオゲームに興味が無かったからこそ被ってしまったのでは、と想像すると鬱々してくるものがある。うーん。

帰りはShugoArtsに寄ってリー・キットの展示を見た。プロジェクターの使い方が面白かった。

20210109 ライブ配信と熱

三連休一日目。

歯医者に行ったついでに食料品を買い込み、後は家でOutwardを遊んでいた。正月から始めたのに既にプレイ時間が40時間を超えてて、いい加減DLCを買おうかと迷ってる。Outwardの良さを語る記事とかやる気が出たら書いてみたい。

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夜はギリギリでチケットを買ってシンデレラガールズの正月ライブを見た。この1年は色々と配信ライブを見て良いものとそうで無いものがあることに気づいたけど、その中でも満足度が高かった。

先に微妙だった方の配信がどんなものだったかを挙げてしまうと、やっぱり録画映像を流していくタイプのもの。当然ライブならではの熱みたいなものは無いよね。でも本当にキツかったのは、ライブと称した配信なのに、チケットを買って見てみると明らかに編集の入った録画映像をストリーミング配信しているというやつ。このパターンに遭遇してしまうことが意外と多かった。中には録画でしか出来ない凝った演出をするものもあったけれど、だったらセルでダウンロードさせて欲しい。

逆に良いなと思ったのはスパイラルホールが関わった配信で、その中でも蓮沼執太フィルの『#フィルAPIスパイラル』が特に良かった(このブログで蓮沼執太の話し過ぎだろ)。そもそも蓮沼執太はアート側の活動で野外や公共施設でその場所に即した音を鳴らすことで特定の感覚を喚起させるという作品を作っている人なので、当然オンライン配信だから出来ること、零れ落ちることを盛り込み済みで企画している。このイベントも”API“の名の通り、ダンサーのAokidが会場の外で踊る姿が『Raw Town』の演奏中に割り込んできたり、Zoomを用いて視聴者の部屋を配信で流してしまうなどの演出がリアルタイム編集で行われる。

でも何より良かったのはコロナ禍で失われた風通しの良い空間を作ろうとしているところ。このイベントでは多くのゲストが参加していて、それもダンサーであるAokidからアイドルであるRYUTistまでいるなど、ジャンル横断的なメンバーを選出している。それに出演者は皆マスクを着けておらず、この会場限定で自由に人が会えた以前の世界が戻っているかのように見える。恐らく同じく沢山のゲストを招いた日比谷公園ライブのコンセプトを今風にアップデートにしたのだと思う。


蓮沼執太フィル オンライン公演 #フィルAPIスパイラル|Shuta Hasunuma Philharmonic Orchestra #phil_api_spiral


Shuta Hasunuma Full Philharmonic Orchestra / FULLPHONY (Live at 日比谷野外大音楽堂 2019.08.25)

それでシンデレラガールズのライブの話に戻るけど、無観客ライブでも客側は問題なく楽しめると思っていて、でも空っぽの幕張メッセの前で歌う演者側はモチベーション的にかなりきついのでは…と気になっていた。これについてイベント後にアイマス公式チャンネルでの配信で触れられていて、実は客席に巨大なスクリーンが仕込まれている。ここにはバンナムの配信インフラである”アソビステージ”の機能と連携して、視聴者がブラウザ上で操作したサイリウムの絵が映し出されている。アイマスライブでは演者や楽曲の内容に合わせてサイリウムの色を変えるという文化があって、それがバーチャル上で再現されている。


【AP生配信】【DAY1】THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS Broadcast & LIVE Happy New Yell !!! 終了後感想会【アイドルマスター】

これについて、気休め程度にしかならないんじゃないかという意見はあると思う。でも、そんなものが無くてもプロフェッショナルならやりきれるだろうと切り捨てるのではなく、可能な手段を尽くして参加者全員が気持ちよく仕事ができるように動いていく態度が、熱を失わないために重要なんだろうという気がする。それが出来なかった現場だってどこかにあっただろうとも思う。

ライブ自体はいつも通り素晴らしかった。ライブ熱が高まってきて、なーはーの曲が無性に聞きたくなってきた。なんで7th行かなかったんだろう…。

20210108

広告を消しに来ました。
とは言えサボっているのではなく、最近はtumblrでやってるゲームブログの方の更新で忙しかった。
・私的GOTY2020 – snowtale_05の隔離メモ

毎年恒例のGOTY記事だけど、2013年から途切れてることなく続いているようで我ながら頑張っていると思う。(ビュー数や反応は年々減っているけど)

 

ツイッターを眺めていたら、朝日さんが新曲をアップしていた。それも久しぶりの石風呂名義で。

コンテンポラリーな生活と石風呂としての活動が終わった後、ネクライトーキーに移行してからはあっと言う間に火が付き、朝日さん的には今が一番脂が乗ったタイミングだろうに、コロナ禍で2020年のツアーは殆どが中止になってしまった。最近では小規模で開催できていたものの、この正月の状況を見る限りフィジカルなイベントはまたしばらく厳しそう。そんな最中に作られたこの曲の内容は心中察するに余りありあるものがある。

コロナと少女と言えば、大槻香奈も一度は停止させていた少女モチーフの作品を復活させていたのを連想してしまった。ふり返ること、アップデートすることをせざるを得ないのかもしれない。

 

20200913 ノーライフキングを読んだ

思いの他刺さって一晩で読んでしまった。

ノーライフキング』はいとうせいこうの著作で、早い時期からビデオゲームを取り上げた小説として紹介されることがある。糸井重里ドラクエに影響されて『MOTHER』を企画したように、本作も編集者気質の人たちが新しいメディアに反応した流れにある一つだろうと想像していた。しかし、読み進めていくと意外にもビデオゲームに対する踏み込みは浅くて、噂や都市伝説が蔓延した90年代の空気へ言及する物語だった。音楽好きの人ならこの説明でピンと来るかもしれないけれど、要するに『噂だけの世紀末』の小説版とでも言うような内容になっている。


『噂だけの世紀末』は、以下に引用する歌詞のように、ノストラダムスの予言といった終末ブームで盛り上がる流れを痛烈に批判したラップ楽曲だ。

2001年に誰もが思った こんなことならやっておけた
日本初めての世紀末は噂が作る噂のクズだった

一方、本作のあらすじは、人気ビデオゲームノーライフキング」に纏わる不穏な噂が子供たちの間で蔓延し、やがて大人たちへも影響を与えていくというもの。初見で読み進めていたとき、『噂だけの世紀末』の歌詞を踏まえて、いずれは噂が霧散するような展開を予想していた。でも実際はその逆で、噂を信じる子供たちが極限状態に至ったところで話はぶつりと終わってしまう。悪い言い方をすれば、批判していた筈の終末思想に乗っかった作品群の一つになっているようにも見えた。(まあノーライフキングは噂だけの世紀末より先に出ているんだけれども)

なぜこうなっているかを考えると、本作の興味が終末思想へのカウンターにあるのでなく、その噂が蔓延する構造を解き明かすことに向いているからなのだと思う。

ノーライフキング』は基本80年末の空気感を再現することに注力していくけれど、大きく創作している点として、噂は子供たちから生まれるものとして描いていることがある。この小説における子供たちとは、デジタルなツールに適用した人間の代表だ。子供たちは新しいメディアであるビデオゲームで盛り上がっているし、塾ではパソコンによる授業が行われ、生徒らは講師に隠れながらチャットを楽しんでいる。そしてここからが『ノーライフキング』の予見性のある部分で、対面ではない、デジタル上の高速なコミュニケーションを伴う生活を続けることで、子供たちは無自覚ながら徐々に共同体としての意識を獲得するようになり、そこから噂が生まれていく。

これはいまで言うと、ツイッターでのクラスターのようなものだと思う(もう死語になってる気がするけど)。タイムラインに流れる大量のコメントを眺めるうちに同じような嗜好を持つ人に気がついて、いつの間にか連帯を意識するようになる感じ。こういった共同体を育てたり可視化する役割は、以前は雑誌やTVといったメディアが担っていたんだろうけれど、ITの発達でそれらが民主化されることをいとうせいこうは予言したかったのだと思う。

ただ、その予言が実現した2020年にこの本を読んで面白いのか?というツッコミはあるかもしれない。それでもこの本が楽しめたのは、テクノロジーに翻弄される人間の話、つまりSFとして綺麗にまとまっているからなのだと思う。子どもたちだけに噂が見えて、大人はそれに関与できないという分かりやすい構図も、次の世代のための物語として普遍性がある。また、子どもと大人の断絶の末に人類の終わりがやってくるという展開は『幼年期の終わり』にも重ねられていて、名作SFのオマージュになっているのもよくできていると思う。

ノーライフキング』は小説家としてのいとうせいこうの処女作というのもあって、稚拙な部分も少なくない。時々、登場人物の心情を地の文でごりごり書いてしまったりするのは正直目に余った。それでも、この話を単なる未来予測にはせず、寓話性を高めて出力しようとするバランス感覚がこの小説を佳作にしているのだと思う。

とても面白かった。

20200807 展覧会でよかったやつ

最近の展覧会で印象に残った作品のメモ。

ビットコイン採掘と少数民族のフィールド・レコーディング/Liu Chuang

東京都現代美術館「もつれるものたち展」

ビットコイン採掘場がPCの騒音を掻き消すために水力発電所の近くに建てられているという話をきっかけに、SFめいた人間とテクノロジーの話が展開されていくというやつ。史実のみでなく『未知への遭遇』や『惑星ソラリス』の引用など、フィクションからノンフィクションまで大胆に横断してみせる心地よさがあった。

Mr.Tagi’s room and dream/ザ・ユージーン・スタジオ

21世紀美術館「de-sport : 芸術によるスポーツの解体と再構築」

ドラムを演奏しながらチェスを指すという架空のスポーツに挑む様子を撮影したもの。演奏とチェスのルールがどう絡んでるのかは見ただけではさっぱりなんだけど、色々想像してみるのが楽しい。軍略と音楽の組み合わせはパタポン辺りを思い出したりもした。実際、こういうビデオゲームがあっても良いかも。相手の手を待つ間にチェス盤にペインティングができてそちらの技能点を競うみたいなやつ。

<30sec>シリーズ/菱田雄介


東京都写真美術館「あしたのひかり 日本の新進作家 vol.17」

以前このブログで棒立日記という動画を紹介したことがあったけれどこれに似ていて、様々な人の立ち姿を30秒かけて撮影していく連作。恐らく被写体となる人物には真顔で立ち続けるよう依頼しているのだろうけど、徐々に瞬きや体の揺れが現れてくるのが愛らしくて良かった。

音を消した状態#22:音を消したチャイコフスキー交響曲第5番/楊嘉輝

MAMコレクション012:サムソン・ヤン(楊嘉輝) | 森美術館 - MORI ART ...

森美術館MAMコレクション012:サムソン・ヤン(楊嘉輝)」

アンサンブルの演奏を映した映像作品。実は奏者の楽器は弦にテープを張るなどして音が出ないようにされていて、スピーカーから何かが擦れるようなノイズが鳴り続ける。蓮沼執太や宮坂遼太郎のパフォーマンスで、楽器ではないものを自在に扱って演奏をするというのがあるけど、この逆パターンの方法で似たことをやろうしているのが面白かった。

おわり。書き終わってから気づいたけど全部映像作品だ…。

 

追記:2020/08/16

一つ書き漏らしていたので追加。

マルチチュード/アンドレアス・グライナー

横浜トリエンナーレ2020

今年の横トリは長編の映像作品や参加型作品などが多く、よくスケジュールを練っておかないと見逃しが発生する初見殺しな内容だった。そんな中、プロット48で閉館時間ギリギリの回で見れたのがこれ。

夜光虫を閉じ込めたポリケースを自動演奏ピアノの弦の上に置き、部屋を真っ暗にする。演奏が始まると、ポリケースと接触した弦が叩かれることで夜光虫が一瞬青く光る。面白いのは、概要のみだと「夜光虫きれい~」な作品に見えるけれども、異物を乗せた弦の音は鈍い炸裂音のようなものとなり、むしろ夜光虫の光はノイズとか摩擦といったものを可視化したものとして演出されているように見えること。自動演奏される譜面は、このノイズも曲の一部となるように苦心して設計されているように感じた。今年の横トリのコンセプト(ディレクターのメディア・コレクティヴはソース”と呼んでいた)の一つには「毒との共生」があり、その流れで採用された作品なのではないかと妄想した。

20200603 あfろ先生と安倍吉俊

この前ゆるキャンのアニメを全話見た話をした。その流れで原作者であるあfろ先生の漫画を一式読んでみたのだけど、その作風にかなり惹かれるところがあった。それは、自分が安倍吉俊に感じている魅力と近いものだと思う。以下にあfろ先生の漫画の感想や、安倍吉俊を連想した理由について書いてみる。

あfろ先生の作品を俯瞰してみた時、実は『ゆるキャン△』は転換期にあたる作品になる。ゆるキャン以前に書かれた『月曜日の空飛ぶオレンジ』と『シロクマと不明局』は、うってかわってどちらも著者のイマジネーションを炸裂させたかのような架空のSF世界を舞台にしたものになっている。どちらも登場人物達がシュールなギャグを永遠に続けるという読者を選ぶ内容で、処女作である『月曜日の空飛ぶオレンジ』は打ち切りだったのか唐突な最終回を迎えている。あえて偏見を持って言うなら、『ゆるキャン△』は自らの持ち味と信じていたものを封印して、読者へ配慮した大人になって書かれた作品だ。

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『月曜日の空飛ぶオレンジ』1巻より。こんな感じのシュールなギャグが永遠に続く。

しかし、この2作はひたすら荒唐無稽な展開が続くながらもメインプロットと呼べるものが一応存在していて、どちらも奇妙な事態が巻き起こる世界の仕組みに迫るという、自身の作風と綺麗に対応させた読み応えのあるものになっている。そこからは、好き勝手やっているようで、どこか自身を引いた目で見ているかのようなバランス感覚が感じられる。

特に2作目である『シロクマと不明局』は完成度が高い。冒頭2ページ目で突如死んでしまう主人公が煉獄でスローライフを送るというもので、仕事を探したり、新しい人々との出会いなどを通して成長するモラトリアムものになっている。死後の世界での生活という設定はシュールなギャグをやり続ける理由付けとして納得感がある。しかし本当に驚かされるのは、物語の終わりにおいて、主人公は自身の死の理由について知りもう一度新しい人生を望むという、モラトリアムものとして真っ当な展開をしつつ、自身の作風のために間借りしていたように見えた煉獄という設定にもケリをつけてみせることだ。

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『シロクマと不明局』1巻より。食堂の間取りといい完全にかもめ食堂のパロディ。意外とガッツリ先行研究とかしてるんだろうか。

ここで安倍吉俊の話に戻る。あfろ先生との比較として出してしまったけど、そもそも安倍吉俊は漫画家出身ではない。HPに挙げていたイラストがアニメ業界の目に留まり『serial experiments lain』に参加したのが初めての仕事であり、つまりイラストレーターから始まっている。『serial experiments lain』の後、プロデューサーの上田耕行からの無茶ぶりによって『灰羽連盟』の脚本を担当させられたのが安倍吉俊の初めての本格的なストーリー制作の仕事だ。

『灰羽連盟』は安倍吉俊の同人誌が原案であり、『NieA_7』や『回螺』にも通ずる、現実とは異なる架空の世界を舞台した物語になる。安倍吉俊は”人間の頭の中にもう一つの世界がある”というモチーフに関心があることを著作のあとがきなどで明かしている(ソースは忘れたけど関心のある作品として『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『旅のラゴス』に言及したこともあったと思う)。

『灰羽連盟』は灰羽と呼ばれる背中に羽を生やした人間がいる世界の物語で、灰羽は巨大な繭から成長した子供の姿で生まれ、街で過ごした後、時が来ると街を囲う壁の外の世界へと巣立っていく。『NieA_7』と同じく、デビューまでの期間が長かった安倍吉俊のモラトリアム的な志向が反映されたような設定だ。安倍吉俊は初めての経験ながら、アニメ全13話の脚本を見事に書き切っている。イラストレーター出身でありながら、説得力のある架空の世界を描くということのみに終始するのでなく、灰羽の設定そのものに行って帰る物語の構図を仕込んでいるなど資質を感じさせる。更には灰羽である主人公が外の世界へ行くまでの物語になるかと思いきや、罪の意識に囚われ街から出られなくなっている先輩の灰羽を送り出すことが最終回におけるプロットになるなど、煉獄めいた世界観設定に対する更なる深堀りを行うツイストまである。

あfろ先生と安倍吉俊の一つ目の共通点は、作家活動の初期において、自分の頭の中にある架空の世界を出力することに関心を持ち、またモラトリアムものという利己的な作品に成りかねない危うい要素を選択しつつも、持ち前の物語設計能力によって納得度の高い物語を作り上げていることだ。

あfろ先生は『シロクマと不明局』の完結後、4コマではない漫画作品として『ゆるキャン△』を書き大ヒット作となる。これに平行して立ち上げられた新作が『mono』だ。

『mono』はゆるキャンとは異なり再び4コマ漫画に戻っている。舞台はSF世界ではなく、写真部に所属する女子高生たちの日常を描くという内容だ。作中では主人公の持つ全天球カメラで撮影された魚眼レンズ風の風景が度々挿入される。しかしこれは『mono』から始まったものではなく、処女作から続く演出だ。著者の写真趣味が染み出してしまったものと捉えても良いかもしれないが、もしこういったレンズを通して見た風景から得られる情緒を作品に取り込もうとしているとしたら、それはどういったものだろうか。

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『mono』1巻より。

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『月曜日の空飛ぶオレンジ』1巻より。

『mono』が異質なのは、現実世界を舞台とし女子高生を主役に据えているのにも関わらず、初期作以上に荒涼な印象を受けることだ。そもそもこの作品は、大好きだった先輩に憧れて写真部に入った主人公が、先輩の卒業により抜け殻になってしまったところから始まる。主人公の死から始まった『シロクマと不明局』と同様に、全て終わってしまった世界をどうやって面白おかしく生きていくかという話だ。そのための手段として写真部の面々は「RICOH THETA」や「HX-A1H」や「GoPro」で世界を撮って遊んでいる。

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『mono』1巻より。

あfろ先生はぶれることなく、劇的なことは起こらない曖昧な日常を生きる感覚をそのまま自身の漫画にも反映してきたのだと思う。そのやり方でも才能があったから商業誌で連載を続けることができた。しかし、自身の親しみのある4コマという枠から離れ、万人受けするような明確なドラマを演出することに挑戦したのが『ゆるキャン△』なのだと思う。そういった目線で見た時、『mono』は見事に表裏の関係にある作品だ。

ちなみに『mono』のストーリーは、写真部に所属する主人公らがとある4コマ漫画作家と出会い、漫画のモデルとして山梨周辺で部活動を行うというものだ。その中では、出版社の依頼によりとあるキャンプ漫画のロケ地探訪をする回もあるなど、著者の生活に作品がギリギリまで接近している。

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『mono』1巻より。理想と現実。

安倍吉俊は『serial experiments lain』以降幾つかのアニメ制作に関わった後、イラストレーターとしての仕事が主となっていくが、2009年より漫画作品『リューシカ・リューシカ』をガンガンONLINEで連載する。少女リューシカの日常を描く漫画で、まだ固定概念を持たない少女の感性から見た世界をビジュアル化していることが特徴だ。安倍吉俊は2011年には入籍しており、子供を主人公としたのは年齢や生活面の変化が影響しているのかもしれない。ここで面白いのは、舞台こそ現実世界となったものの、『リューシカ・リューシカ』は安倍吉俊が過去作から扱ってきたテーマの延長線上に綺麗に乗っていることだ。これについては『リューシカ・リューシカ』の直前に完結した『回螺』と比較するのが分かりやすい。

『回螺』は安倍吉俊が商業デビュー前に描いた同人誌から始まる連作で、10年分の作品が1冊の本にまとめられワニマガジン社から出版された。オムニバス形式であり各話は独立しているが、共通するのは人間の記憶と意識、そして世界との関係性についての物語であることだ。

例として、デスゲームの構造が用いられた『白雨』のあらすじを挙げる。2人の登場人物は目が覚めると迷宮に閉じ込められている。出口を求めてさまようが、いつの間にか殺し合いになり、生き残った方は本能的に相手を捕食してしまう。実はこの物語は分割された人間の意識を統合する実験の様子を表したもので、登場人物はその意識そのものだ。捕食により相手の記憶を取り込んだ主人公は世界に対する認識が変調し、迷宮の出口が見えるようになる。しかし、その先でも全ての意識が統合されるまで同じ出来事が無限に繰り返されることが示唆され物語は終わる。

『回螺』はいわゆるクオリアのような人間の認識メカニズムへの興味から生まれた作品で、『白雨』は人間の世界の認識の仕方は記憶によって変調するのではないか、という著者の考察を物語にしたものなのだと思う。『リューシカ・リューシカ』は一見子育てもののように見えるが、恐らく「子供の頃に見えていた世界は大人になった今と少し違っていたはずだ。あれはなんだったんだろう。」という疑問からスタートしていると思われる。安倍吉俊のこういった人間の認識への偏執的な興味は、イラストレーターという職ゆえに通る、絵が成立するまでの情報量についての考察といった範囲を超え、著作に繰り返し登場している。

あfろ先生と安倍吉俊は、あくの強い作風ながらも、実はいつも素朴な感性で作品を作っているのだと思う。そのため外圧のない状況で立ち上げた作品には、その時の生活や興味のある事柄がそのまま反映されてしまう。しかし、表面的にはジャンルすら変わったかのような変化があっても、その核には一貫した作家独自の視点がある。むしろ、その視点を巧みに流用して次はどんな作品を生み出すのかという手つきそのものが一つの楽しみにすらなっている。

長々と書いたけれども、要は二人とも才能があるのに、経歴を俯瞰して見るとどこかマイペースさが滲み出ているところに魅力を感じているのだと思う(作家の視点に個性があるからこそ、それで成立するんだという前提付きだけど)。こういったタイプの作家は追いかけ甲斐がある。何年かに一度くらいの頻度でいいので、思い立った時に活動内容をチェックすると、その時に作家がどんなことを考えていたが作品を通して分かり、他人の人生を覗き込むような楽しみ方ができる。自分はRSSリーダーでブログを読み漁るというのを習慣にしているのだけど、そのより高純度なバージョンのような感じがある。

余談だけど、安倍吉俊は最近、愛機「SIGMA fp」の動画撮影機能の実験としてYoutubeに積極的に動画を上げている(これです)。その中で、ツイッター社から公式マークを付与しようかという提案を貰ったのに恐縮すぎて断ってしまったというエピソードを紹介していて、つい笑ってしまった 。動画での語りの印象もそうだけど自己顕示欲を感じないんだよね。よく生徒に懐かれる教授のような雰囲気がある。そしてあfろ先生に至ってはそもそもSNSアカウント等の発信場所が一切ないというご隠居ぶり。この記事を書くにあたってwikipediaやインタビューなどを漁ってみたけど、年齢や性別などの情報も見つからなかった。でもこれは秘密主義を貫いているというより、「聞かれなかったから答えなかった」が続いた結果としてたまたまそうなったのではという気もしてくる。

安倍吉俊は同人誌の『飛びこめ!!沼』シリーズが読んでみたいんだけど、最近はコミケから足が遠のきがちで未だに手に入っていない。『惑星ラーン』も初めの1巻を見ただけで止まってる。あfろ先生は『mono』の2巻がそろそろ出て良い時期だと思うので、まずはこちらが楽しみかな。

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『mono』1巻より。

20200523 DMCとブレイド

ツイッターを眺めていたら、神谷さんが面白い話をしていたのでメモ。

ブレイドは1998年公開のアクション映画で、DMCの元ネタの一つではないかとよく挙げられる作品。主人公は人間と吸血鬼のハーフという設定や、真っ黒のスーツを着込んだ男が刀や銃を駆使して吸血鬼を切り倒す光景など、確かに共通点は多い。


Blade (1/3) Movie CLIP – Vampire Killer (1998) HD

とはいえ、多くのアクション映画があるなかブレイドが挙げられやすいのは、リアリティを無視して全能感を剥き出しにした無茶なデザインというところから穿った目線で連想されてしまっている部分があると思う。

でも神谷英樹が作るキャラクターにはそういうダサさを感じたことってあまりない。神谷さんはあくまでプレイヤーが感情移入しやすいヒーロー然とした主人公を作り上げようとしているのであって、一見全能感バリバリに見えてしまうダンテも、アマテラスやビューティフルジョーと同じ発想で設計されているのだと思う。

とか考えてたら、ご本人からも同じようなコメントがあった。

しかしプロジェクトG.G.はどんなゲームになるのか全然分からない。特撮ネタっぽい雰囲気だけど、着ぐるみの繰り出す重鈍なアクションって神谷さんのゲームとは真逆だよね。プラチナゲームズによる自社パブリッシュ作品なのに、客層を選ぶジャンルなのも気になる。勿論その辺りはちゃんと戦略があるんだろうけど。

スケイルバウンド以来神谷作品はお預けになっているので、特に特撮に興味のない自分でも楽しめるゲームだと良いね。